チベット体操、自然、「未完成」交響曲

久しぶりに経堂に出向く。10年以上住んだ街だからとても懐かしいと同時に、同じ都内とはいえ新宿のような繁華街とは違いこういう住宅街に流れる空気は幾分ゆったりとしていて、やっぱり住みやすいんだろうなと改めて感じた。
駅から歩いて20分ほど、船橋5丁目のとあるスタジオで初開催された「世田谷チベット体操教室」。20人以上もの方が参加されており、ここのところの突然のチベット体操ブームというのは大変なもんだなぁと実感する。
ところで、参加者のある女性がコメントしていたのだが、今日は「1」が5つ並ぶとても良い日だとのこと。

2008年=分解すると、2+0+0+8=10→1+0=「1」
子年=「1」、1月=「1」、11日=「1」、「1」

だから何だといわれればそれまでだが、とにかく「ぞろ目」の日。

昨日からYさんと「自然」と「不自然」についての議論が続く。例えば、前にも書いたが「ポジティブ・シンキング」といわれるもの。ネガティブな側面を封印してものを一面的に見ることは「不自然」ではないか?ムンク展を見に行き、「ムンクはネガティブな感情や知覚の表現や解放が逆に『暖かで豊かな感情』を醸し出している。彼はネガティブな題材をしっかり受け止めて芸術にまで昇華している。そこに人間性を感じるんだ」と彼女は言う。確かに「ネガティブ」を排除する必要はない。そこにあるべき姿であるようにある。それが「自然」なのである。

シューベルト:交響曲第8番ロ短調D759「未完成」
カルロス・クライバー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

朝、チベット体操をやっている時、突然頭の中で第1楽章の最初の低弦のテーマが鳴り響いた。この曲は古今の交響曲を代表するポピュラーな名曲で、特に日本人が戦前より愛好する楽曲である。どういう理由か不明だが、作曲者が創作を途中で放棄し、形式上「未完成」となっている。しかし、まさにそこにあるべき姿であるようにある、シューベルトの心を投影した「自然」な音楽なのである。
形式とは、人間が後付で考えた「器」に過ぎない。物事は何にせよ「かくあらねばならない」のではなく、「かくある」のである。

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