ギーゼキング ワルター指揮ウィーン・フィル ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73「皇帝」(1934.10.6録音)

歴史の証言者。
ブルーノ・ワルターの回想は実にリアルだ。
10代の頃に読んでいた印象と、今日この頃再読する印象とはまるで違う。
読み手の意識の進歩、発展は経験を重ねるごとに深みを増すが、この手の手記はある程度年齢になってから読んでみると新たな発見が多い。

例のフィルハーモニー・ホールでのオーケストラ演奏会以来、私はハンス・フォン・ビューローを自分の模範とするようになっていた。思いはこの偉大な指揮者をめぐり、彼にならって自分を形成し、のちには彼と自分とを比較してみるようになった。私は音楽家としての彼を研究しようと思ったばかりでなく、人間としての彼をも進んで知ろうとした—個人的な特徴や発言までさぐろうとしたのも、子供じみた好奇心に駆りたてられてのことばかりではない。あれほど主観的な調子の強い音楽家の芸術を完全に把握するには、どうしても人間に対する理解が必要であるということを、確かな本能が教えてくれたのである。
内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏―ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P66

惚れ込んだ音楽家の芸術ばかりでなく、その音楽家の人間理解が必要だと思うのは、同じく僕もだ。

私がはじめてその演奏に接した頃のビューローは、押しも押されぬ支配者としてドイツ管弦楽界に君臨していた。交響的作品の古典の解釈における彼の権威は、揺るぎなかった。また彼独特の闘争的な性質、興奮しやすい気まぐれ、着想ゆたかなウイットも公衆の関心を呼び、他の音楽家にはほとんど見られないような人気を集めていた。残念なことに、当時はもうあまりベルリンで棒を振ることもなかったが—肉体的ならびに精神的な苦痛が彼の生命力をいちじるしく弱め、演奏会の数は年ごとに少なくなっていた—彼の指揮による比較的数少ない演奏会は、ほとんど逃さず聴きにいったと思う。こうして古典作品の一部と、かなりの数にのぼる価値高い近代音楽とを、正統な解釈によって聞くという幸福を授けられたのだが、そのなかには、とりわけ多かったベートーヴェンの交響曲のほかに、モーツァルト、シューマン、シューベルト、ブラームス、ウェーバーなどの作品があった。むろんワーグナーは、私の覚えているかぎりでは、もう演奏されなかったと思う。前半生をすっかりワーグナーの作品に捧げきった彼であったが、彼から妻を奪ったこの友人と仲違いしてのちは、個人的に極端な反目が続いたばかりでなく、芸術的にもかなり決定的に離反していたのである。
~同上書P67

ワルターの模範がビューローにあったことを考えると、そもそも彼の芸術が、先のメトロポリタン歌劇場との「ドン・ジョヴァンニ」やトスカニーニ追悼、シンフォニー・オブ・ジ・エアとの「エロイカ」などのライヴに見られる熱狂を軸にしたものであるのも納得できる(ビューローの演奏を聴く術はないが、ワルターの回想を読むだけで鳥肌が立つ)。

ピンツァ キプニス クルマン サヤン バンプトン ノヴォトナ ワルター指揮メトロポリタン歌劇場管 モーツァルト 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」K.527(1942.3.7Live) ブルーノ・ワルターが・・・、吠える ブルーノ・ワルターが・・・、吠える

いずれにせよ彼の解釈からは、高い芸術的な純粋さが光を放っていた。誓ってもよいのだが、彼の解釈が、人の目にたつような、ましてや妨げになるような自由奔放によって曇らされたことはいち度もなかった—まじめな音楽家気質と作品に対する畏敬の念とが、そうした危険から彼を守ったのである。
~同上書P67-68

コジマとの破局の件を含めたビューローにまつわるワルターの感慨と回想はこの後も続くが、そこにはこの大指揮者への崇敬の念が見事に刻まれる。

そしてまた、ワルターは、少年期の類稀なる音楽経験として、ハインリヒ・エールリヒ教授やオイゲーン・ダルベールのことについて尊敬の念を込めて回想するのだ。

こうして、彼(ハインリヒ・エールリヒ)の音楽の火が新たに燃えあがってまもなくまた消えていったために、私の尊敬するこの老先生、この保護者の像は、過去を振りかえる私の目から霞のように遠のき、こんどは同じ頃に音楽界の人気を呼びはじめた、ひとりの希望に溢れた青年のしだいに度をます光輝が、私の目のまえに浮かんでくる。若きオイゲーン・ダルベールが嵐のように台頭して、輝くばかりの名声を獲得したさまが思いだされるのである。ベートーヴェンの『変ホ長調ピアノ協奏曲』の再現に見られた彼の巨人のような迫力を、私はけっして忘れないであろう。もはや弾いているのではなく—彼が曲そのものになっている、と言いたいくらいであった。それに加えて、楽器と一体になった彼の姿は、半身ピアノ半身人間の新たなケンタウルスのように見えた。残念ながらもはや私には聞くすべもなかった、リストやルビンシュテインの演奏は、おそらくこんなふうだったろうと思った。
~同上書P71-72

純粋な少年期の記憶というのは幾分美化されているにせよ強烈だ。

・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73「皇帝」
ワルター・ギーゼキング(ピアノ)
ブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1934.10.6録音)

ギーゼキングを独奏に迎えた90年前の録音は、ワルターがかつて聴いた尊敬するダルベールのものとは明らかにその印象は異なるだろう。ギーゼキングの演奏は実に即物的だ。一切の感情を排し、音楽をさらっと弾きこなしていく。

一方のワルターの指揮は濃密そのもの。それゆえに、二人の相反する音楽性の掛け合いが、ある瞬間はちぐはぐに映れど、ある瞬間は飛び抜けて調和するのが面白い。
白眉は第2楽章アダージョ・ウン・ポコ・モッソの安らぎ!

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