「『ヴァイオリン協奏曲』から解放された喜びが、ほかのことで帳消しになってしまった。ちょうど脊椎の下のところを虫に刺され、一日でクレッシェンドしてひどい膿瘍になり、喜びがすべて消し飛んだのだ。今のところ下火になってはいるが、また治るのに8日もかかってしまうだろう」
~田代櫂著「アルバン・ベルク―地獄のアリア」(春秋社)P329
アルバン・ベルクの死の遠因は虫に刺されたことだったらしい。
ベルクは11月2日、森の家の使用人イグナツ・ファンツォイが運転するフォードで、ひどい状態のままヴィーンに戻った。背中の炎症と足のまめはいまだに痛み、前の週に処方されたアスピリンも、原因不明の発熱を抑えられなかった。
~同上書P333
激痛と発熱はしばらく続く。
12月12日、オスヴァルト・カバスタ指揮のヴィーン交響楽団が『ルル組曲』をヴィーン初演した。ベルクは本番前日のリハーサルと12日のコンサートに招かれ、どうにか出かけていった。彼の表現によれば、まるで「両足が間違った場所に歯痛を抱えている」ようだった。
~同上書P334
言葉に言い表せない痛みが彼を襲う。しかし、2日後(12月16日)、痛みが突然和らいだのである。その理由を、何十年も経ってゾーマ・モルゲンシュテルンが明らかにした。
1970年1月にヘレーネに宛てて長い手紙を書いた。その手紙は、ベルクが急逝する直前に起こったことを、ヘレーネに追認させるためのものだった。
1935年12月にアルバンを訪ねた時、彼は自分の部屋のソファに座れなかった。彼は椅子に半分だけ尻を乗せ、残りの半分に負担をかけないようにしていた。僕が二度目に訪ねた時、君たち夫婦は明るい雰囲気だった。アルバンは気分が良さそうで、君は何があったか話してくれた。「私が自分の鋏を持ち出して、よく煮沸消毒し、膿瘍を切開したのよ」。アルバンは君の勇敢な手際を褒め、長い苦痛からやっと解放された顔をしていた。僕にはフルンケルの経験がなかったが、インゲのおじハインツがフルンケルを患い、サナトリウムで注射してもらって治ったのを思い出した。僕は君の話に驚き、家に帰るとすぐに友人の外科医、君たちも名前だけは知っているカスパー・ブロント医師に電話し、君たちの名は伏せて事情を説明した。ブロント医師は驚愕した。彼が驚愕したのは、ヘレーネ、君の外科的な試みにだ。彼はゼプシスの—敗血症の—危険があると警告した。
~同上書P336
衝撃的な事実だが、故意でないことは間違いなく、それならば致し方なく、ベルクの51歳での急逝も寿命だったことになる。
不運が重なり、結果的に死期を早めてしまったアルバン・ベルクの不幸。悲しいけれど、運命というのはそういうものだ。
ベルクがなくなる日のことを綴る、息子エーリヒの手記。
彼はまた目を覚まし、時間を訊ねてこう言った。「今日は運命の日になるな」。その日は23日だった。そこにいた二人と、一人の医師、あるいは一人の看護婦の頭をよぎったのは、時計の針を12時過ぎまで進ませることだった。病人がもう一度目を覚ました時、真夜中を20分過ぎていた。アンナ・レベルトが彼にこう言った。「アルバン、23日は過ぎたわ、今日はもうクリスマスよ」。ベルクはこう答えた。「これですべて良くなる、もう眠ろう、アンナ姉さんも、看護婦さんも」。彼は壁の方に向きを変え、その数分後に息絶えた。
~同上書P341
ちなみに「23」はベルクの運命数として彼が生涯こだわった数字だ。
(エーリヒが聞いたところによると、実際亡くなったのは23日だったそう)
ベルクの死の真相の詳細な報告に言葉を失う。
彼の人生の最期をひもときつつ、いわゆる彼の命日に(来年は没後90年だ)室内協奏曲やピアノ・ソナタたちを聴く。
傑作室内協奏曲のエロス。一見暗く、難解な節に溢れるように思われるが、理性的なベルクと官能的なベルクの均衡の狭間に垣間見る明朗さと簡潔さに、聴けば聴くほど楽の音の深みにはまって行く(ふとどこかで聴いた旋律が顔を出す瞬間の美しさ)。
最晩年のベルクが三重奏のために編曲した室内協奏曲からアダージョ楽章は一層透明で、また甘美。
ところで、バレンボイムの弾く作品1のソナタがまた色香に満ちる。
世紀末頽廃を抜けた、エリック・サティの奔放さに堅牢な鎧を被せたような、やはり均衡の狭間にある微笑。
「だったら君はもう言うべきことを言ってしまったのだ」
(アーノルト・シェーンベルク)
シェーンベルクの言葉通り、ベルクは単一楽章の独奏作品として世に送る。
カガン リヒテル バシュメット指揮モスクワ音楽院器楽アンサンブル ベルク 室内協奏曲(1977.12Live) ブーレーズ指揮アンテルコンタンポランのベルク室内協奏曲(1977.6録音)ほかを聴いて思ふ スターン、ゼルキン&アバドのベルク室内協奏曲(1985.10.18録音)ほかを聴いて思ふ ファウスト&アバドのベルク&ベートーヴェン(2010.11録音)を聴いて思ふ