フルトヴェングラーら巨匠の演奏活動における「精神性」を不要な議論だと揶揄する人たちもいるが、実際のところ、フルトヴェングラー自身が音楽における精神性を云々していることから考えると、聴き手がそのあたりを汲み取って論ずることは決して不要なことではないように僕は思う。
フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル チャイコフスキー 弦楽セレナーデ ハ長調作品48(抜粋)(1950.2.2録音)ほか同じ作品の演奏であっても誰が指揮する(演奏する)かによって印象は随分変わる。もちろん同一人物の指揮(演奏)であっても時期や時代が変わればまったく違うものになること多々。
それこそ再現芸術たる音楽は水ものであり、目で見ることのできない最高の芸術だといえまいか。
私は、そのときの《第九》はゲネプロもオーケストラ・リハーサルも招待され、本公演も聴きましたが、本当に素晴らしかった。実はそのころ、フルトヴェングラーは聴覚がだいぶ弱くなっていました。そのためか妙な癖が出てきて、しょっちゅう「プシュ」と唾を吐いていました。そのときのリハーサルでも、オーケストラ席に座って聴いていたのですが、「プシュ、プシュ」とやっていましたね。それはともかく、オーケストラの人たちは、彼に魅惑され感動していました。私もこれほど彼が集中していたのを見たことはありません。
~バルバラ・フレーメル/取材・文 眞峯紀一郎・中山実「バイロイトのフルトヴェングラー バルバラ・フレーメル夫人の独白」(音楽之友社)P52
バイロイトの由緒あるフォイステル家の次女バルバラ・フレーメル夫人による回想は、実に生々しく興味深い。「バイロイトの第九」として有名なフルトヴェングラーの演奏を実際にその場に居合わせ聴いた(音楽的には素人の)彼女の証言は貴重だ。
彼は奥さんに対して、傲岸でナーヴァスに接していました。お話したように、すでに聞くことが困難(難聴)だったからだろうと思います。
その前にリハーサルのためにもバイロイトに来ていました。そのとき祝祭劇場は長らく空っぽのままだったので、コウモリも飛んでいたわ。当時はどこにもアメリカ人のオフィサーがそこら中にいましたね。でも聴衆はみんなエレガントな人々でしたよ。どこから来たのかしらと思うくらいの。公演後、30分間くらい拍手が鳴り止まなかった。とにかく満足でそこを去りたくない感じでした。また再開できたという喜びがありました。しかし、ヴィニフレートは表に出ることはできませんでした。戦争責任を問われていましたから。
~同上書P56-57
祝祭劇場に充満した大歓喜の様子は、レッグが編集した(?)音盤にも明確に刻まれている。
「『苦々しく』思ってはいません。そんなことを思っていたとしたら、色々な新聞が喜んで書き立てるでしょうね。しかし排除され、隅に追いやられたのは事実です。世の中はこのようなやり方で私を罰するつもりなのです」。1951年7月11日に行なわれた《ワルキューレ》のリハーサル休憩時間に、54歳になったヴィニフレートは女友達のレーネに、すぐにバイロイトに来てくれるよう懇願した。「ただでさえ辛いこの時を、一人で耐えるなんて、もっと辛い! こんなにも孤独を感じたことはないわ(・・・)客席に座り、状況に身を任せ、何があっても、はいはいと頷いて切り抜ける。しかし目に入る多くのものは急進的であり過ぎて、胸が引き裂かれる!」「音楽家の99パーセントは、知らない人たち—フィディがいない、ハインツもいない。心臓が潰れそう!!」緑の丘では諍いが絶えず、ヴィーラントとパウル・エバーハルトの間でも争いが続いた。「喧嘩。破滅。おしまいだ。もう止めだ—若者とはこんなもの。動揺する必要はありません」。
昔のように、フルトヴェングラーがまた騒動を引き起こした。「フー」は自分のリハーサル中に、彼が「男K」と呼んでいた若いライバル、ヘルベルト・フォン・カラヤンが客席にいるのを見つけ、怒りを爆発させたのだ。カラヤンは何も言わずに劇場から出て行った。1951年7月29日、音楽祭開幕演奏会でフルトヴェングラーはベートーヴェンの第九を指揮した。コンサートはラジオで中継され、聴く人々に深い感動を与えた。
~ブリギッテ・ハーマン著/鶴見真理訳/吉田真監訳「ヒトラーとバイロイト音楽祭―ヴィニフレート・ワーグナーの生涯(下・戦中戦後編)」(アルファベータ)P261-262
ヴィニフレートの心境とは実際そんなところだった。
崇高な記録とは別のところに存在する苦悩、それはフルトヴェングラーの場合も同様だった。人間の思念、余分な思考がもたらす心の揺れこそ煩悩そのものだ。
久しぶりに虚心に耳を傾けた。
真正のライヴ録音はもちろん素晴らしいが、それでも刷り込みのせいもあろう、ウォルター・レッグの編集(?)によるいわゆる「バイロイトの第九」のあまりの熱気、熱波に今でも焦げそうになるくらい。
前半3つの楽章がともかく最高で、個人的には第3楽章アダージョに止めを刺す、未だにこれを凌駕する演奏は現われていない。今後もその可能性は極めて少ないだろうと僕は思う。
フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管 ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱」(1951.7.29Live) フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管のベートーヴェン第9(1951.7.29Live)を聴いて思ふ バイロイトの第9新音源終楽章に挿入されるトルコ行進曲がまた意味深く、素晴らしい。ここはハンス・ホップの歌唱が世界を先導する。真正ライヴ以上にレッグ編集が強烈なのは、文字通り世界平和を希求する、皆大歓喜の精神のひな形を創造したかのような一期一会感を覚えさせる点だろう。
崩壊ギリギリ(否、崩壊している?)のコーダがまた、現システムを破壊せよというメッセージに聞こえてしまうほど。