バックハウスのベートーヴェン作品109, 110 &111を聴いて思ふ

beethoven_30_32_backhaus289昼、蝉が合唱し、夜、鈴虫が歌う。
立秋である。
酷暑の中、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに浸る。
また、崇高なる覚醒の日。
楽聖最晩年の透明至純の世界を鍵盤の師子王の演奏で堪能しよう。
武骨とはいえ、当意即妙。
この人のベートーヴェンは、色気がないのでなく、人間的なるものを超えた枯淡の境地であり、すなわち大自然と交わる一点の「気」なのだとあらためて思った。
言葉にし難い永遠。
例えば、変イ長調作品110。
光注ぎ、闇は一瞬にして消え去る。
一粒一粒の音が、何とも愛おしい。
第1楽章モデラート・カンタービレ,モルト・エスプレッシーヴォにおける主題の歌わせ方の「ゆらぎ」に感じられる自然の移ろいに、もはやこの人がベートーヴェンと一体になっていることを知る。続く第2楽章アレグロ・モルトの、爆発しては一瞬にして去る激情をバックハウスは見事にコントロールし、第3楽章アダージョ・マ・ノン・トロッポの安寧に巧く引き継ぐ。何より後半、フーガの低音部と高音部の美しいバランスのもとに紡がれ、上り詰めてゆく音楽にベートーヴェンが行き着いた世界―それは決して諦念というものではなく生きる希望に満ちたものだった―を思う。

ベートーヴェン:
・ピアノ・ソナタ第30番ホ長調作品109(1961.11録音)
・ピアノ・ソナタ第31番変イ長調作品110(1966.11録音)
・ピアノ・ソナタ第32番ハ短調作品111(1961.11録音)
ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)

そして、ハ短調作品111はバックハウスの真骨頂。第1楽章冒頭マエストーソから意味深い響きで奏され、主部アレグロ・コン・ブリオ・エド・アパッショナートに至って、晩年のベートーヴェンの内なる怒涛がテクニックを超えて見事に表現される。とはいえ、一層素晴らしいのが第2楽章アリエッタ。予想以上に感情移入の少ない淡々と流れる音楽に「悠久」を思う。ここはもはや音楽以外感じさせない永遠不滅の世界。

ところで、テオドール・W・アドルノは、1937年の「ベートーヴェンの晩年様式」という小論で次のように書く。

ところで他のなにものにもまして最後のベートーヴェンの特色となっている中間休止、唐突な断絶は、出発の瞬間にほかならない。あとに残る作品は沈黙し、空洞を露呈する。ややあって始めて次の断片がこれにつづくのだが、これは出発する主観性の命によって所定の位置につけられ、一蓮托生の縁によって先行する断片とつながれている。なぜなら秘密はふたつの断片の合い間にひそんでいるのであり、両者が相ともに形づくっている形象のうちにしか、それを封じ込めるすべはないのである。この点が、晩年のベートーヴェンが同時に主観的と呼ばれたり客観的と呼ばれたりする背理を明らかにする。
~「音楽の手帖 ベートーヴェン」(青土社)P207

バックハウスは、アドルノの言う「合い間」を的確に読み取り、ベートーヴェンのあるべき姿をうまくとらえたのだと僕は思う。
ちなみに、ホ長調作品109についても同様。第3楽章アンダンテ・モルト・カンタービレ・エスプレッショーネの語りかける旋律の妙に涙がこぼれるほど。

 

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2 COMMENTS

畑山千恵子

これは本当に素晴らしい演奏であり、私たちの貴重な遺産です。何度も聴きつつ、その偉大さにひかれますね。

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