戦時中のニューヨークはメトロポリタン歌劇場での貴重な記録。
年齢を重ねるごとにこの放送録音の素晴らしさが心に沁みる。
指揮者のパッション、それを受ける聴衆の熱量までが刻印された壮絶なる「ドン・ジョヴァンニ」。
大らかな時代であり、人の心が今よりもっと自由だった時代の音楽はせせこましくなく、縦横に飛翔する。レチタティーヴォの伴奏もピアノによる。それがまた大時代がかっていて身体が喜ぶのだ。
ミュンヘンでの仕事によって私が獲得した最も強力な芸術上の財産は、モーツァルトに対する自分の理解が深まったということであった。私はかなり長い時間をかけて、やっとあの《18世紀の》、ないしは《ロココ》の、《微笑》の音楽家を、要するにウィーンにあるティルグナーの記念像の陽気なモーツァルトを、すっかり決定的に放棄し—《かわいた古典主義者》という考えにつられたことは、一度もなかったが—そしてやっと見かけは遊戯的な優雅の背後に、仮借ない真摯と、鋭い性格描写と、戯曲家としての豊かな造形力とを発見し—ついにモーツァルトを、オペラのシェイクスピアと認めるようになったのである。同時に私は、モーツァルトの作品によってわれわれに与えられている、二度とない創造の奇跡をも理解した。すなわち彼にあっては、高貴なものと低俗なもの、善良なものと罪悪なもの、賢明なものと愚劣なものなどのすべてが、戯曲的に真実であり、しかもこれらすべての真実が美になっている、ということであった。
~内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏―ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P292
ワルターの崇高なるモーツァルトの発見は、彼の芸術に革新をもたらした。すなわちとても厳しくも劇的な、そして壮絶なる心理描写を持つモーツァルトの顕現を巨匠は成立させたのである。
いまやモーツァルト上演における私の課題は明らかになった。それは、歌唱とオーケストラの音楽的な美しさをたえず守りながら、あらゆる性格描写と真実性を力強く戯曲的に表現することであった。この美しさのためには、強弱法と拍節の誇張はけっして許されないし、舞台上の表情や動作、色彩や形態においても、誇張は禁物である。したがって問題は、美に従属する節度の内部で充分な表現に達することであり、音楽と戯曲における確固としたゆたかな性格によって美を満たし、しかも美の地上的な軽快さにあまりにも地上的な重荷を負わせないようにすることであった。
~同上書P293
僕にもこの録音の真の意義がようやくわかってきたように思う。
・モーツァルト:歌劇「ドン・ジョヴァンニ」K.527
エツィオ・ピンツァ(ドン・ジョヴァンニ、バス)
ローズ・バンプトン(ドンナ・アンナ、ソプラノ)
ヤルミナ・ノヴォトナ(ドンナ・エルヴィーラ、ソプラノ)
チャールズ・クルマン(ドン・オッターヴィオ、テノール)
ビドゥ・サヤン(ツェルリーナ、ソプラノ)
アレクサンダー・キプニス(レポレッロ、バス)
マック・ハレル(マゼット、バリトン)
ノーマン・コードン(騎士長、バス・バリトン)
ブルーノ・ワルター指揮メトロポリタン歌劇場管弦楽団&合唱団(1942.3.7Live)
ブルーノ・ワルターの指揮はまるで何かにとり憑かれたかのように激しく、モーツァルトの典雅さなどどこかに吹き飛んでいる。それは、ワルター自身がついに腑に落ちた「美に従属する節度の内部で充分な表現に達することであり、音楽と戯曲における確固としたゆたかな性格によって美を満たし、しかも美の地上的な軽快さにあまりにも地上的な重荷を負わせない」ことの体現だったのではなかろうか。
この序曲は主題のごたまぜではなく、迷宮のような観念連合の編み合わせではなく、簡潔・明確・強烈に構成され、なかんずくオペラ全体の本質にあふれている。それは神の思想のように力強く、世界の生のように活動し、厳粛なときには震撼を与え、歓楽のときにはおののきを与え、おそるべき怒りのときには破壊的であり、生を楽しむ喜びのときには感激を与え、罪の審きのときには陰鬱であり、いかめしい威厳を示すときには悠然として荘重であり、歓喜のときには動揺し、ひらめき、踊るようである。
~ゼーレン・キルケゴール/浅井真男訳「ドン・ジョヴァンニ 音楽的エロスについて」(白水ブックス)P159
序曲からただ事ではない、何か恐ろしいことが始まる予兆を示す。
とはいえ、それは悲劇ではなくあくまで喜劇であることを主部の歓喜の表現が明らかに示す。ワルターは節度をもって、一切の誇張なく、物語の、ドン・ジョヴァンニの真実を洗い出すのだ。
ピンツァの方は、ワルターに深い感銘を受けた。「トスカニーニ並みの器量の人物と再び働くことになった」と彼は思い出している。「しかしこの人はよそよそしくも過酷でもなかった・・・(中略)・・・ワルターは挑戦を歓迎し、知的で芸術的なやり取りとして受け止めたので、それはこちらを豊かにする経験となった」。ワルターの導きあって、彼はドン・ジョヴァンニの造形を「寝室から寝室へと飛び移る女殺し」から「完璧な女性の探求を宿命づけられた・・・(中略)・・・魅力ある悪漢」へと変えた。
~エリック・ライディング/レベッカ・ペチェフスキー/高橋宣也訳「ブルーノ・ワルター―音楽に楽園を見た人」(音楽之友社)P342
そしてまた、ピンツァの演ずるドン・ジョヴァンニの素晴らしさ、迫真の理由がここにある。ワルターの助言を忠実に聴き入れたピンツァの勝利だった。そしてまた、彼は30年代にワルターの次女グレーテルと不倫関係にあったが、39年にそのグレーテルが離婚調停中に夫に射殺された事件の影響も尾を引いていたのではないかとも思われる。
ワルターのメトロポリタン・オペラ最初のシーズンには、スメタナの《売られた花嫁》数回と、ピンツァも出演する《ドン・ジョヴァンニ》もあった。ピンツァのグレーテルとの関係をめぐるゴシップはかまびすしく、ピンツァはしばしば悪役の立場に置かれた。バーコウィッツは、ピンツァがワルターの娘との情事の揚句に「彼女をあっさり捨てた」という流言があったと記憶しているし、グレーテルは自殺だったと誤って聞いた人も多く、今でもそう思っている人もいる。バーコウィッツは、グレーテルがピンツァのことで自殺したとまで遠回しに言うことはなかったが、ワルターとピンツァの協働ぶりがまるで友好的なのには驚き、ワルターがピンツァに「大きな礼儀と尊重をもって」接していたと思い出している。あの悲劇からまだ時の経っていない1941年の春に共演するということは、二人に心乱す想い出をかき立てたに違いないが、ワルターはピンツァに娘の死の責任があるとはまったく考えなかったようである。むしろ、これは二人が共有する悲劇であったようで、そのために二人の親交は1957年のピンツァ自身の死まで続いた。そしてその後も、ワルターはピンツァの妻ドローレスと文通を続けていた。
~同上書P393-394
慈悲深いブルーノ・ワルターの本領発揮だろう。
ワルターの尊い人間性が彼のモーツァルトを、「ドン・ジョヴァンニ」を永遠のものにする。
歌唱スタイルや奏法など、古びた印象を拭えないシーンは散見されるが、それでもモーツァルトの真義を体験できるのだからすごい。
第1幕第9場、ドン・ジョヴァンニとツェルリーナの二重唱「お手をどうぞ」など実に野暮ったいが、それがまたモーツァルトの俗性を喚起するようで美しい。
あるいは第2幕フィナーレの、恐怖に端を発する歓喜の爆発こそワルターの真骨頂!