パウル・ヒンデミットのヴァイオリン協奏曲。
戦中の、荒涼たる原野の中で、ヴァイオリンがうねり、オーケストラが軋む。
そこにあるのは悲しみか、はたまた未来への希望か。
40年間で、ヒンデミットの音楽に僕も随分慣れたのだろうと思う。
金管群主体の、大道芸のような音楽に最初辟易した。どころか、ほとんど受け付けなかったと言ってもいい。それがいつも間にか心地良くなった。人間の感性とは不思議なものだ。
五嶋みどり(MIDORI)がヴァイオリン協奏曲を録音したと聞いて、すぐに僕は音盤を押さえた。予想通り素晴らしかった。第1楽章の明朗な音楽の中に、不穏な欧州の空気を吹き飛ばさんとする作曲家の意思が感じられたものだ。管弦楽とヴァイオリン独奏の見事な対話。エッシェンバッハはヒンデミットの音楽を心から楽しんでいる。そしてMIDORIはか弱いが難解な旋律を心静かに、途轍もない集中力をもって歌う。
第2楽章に僕はぶちのめされた。ヒンデミットにもこんな音楽があったのか!
わずか10分の心情吐露、そんな思いで僕はそこにずっと浸った。特に、内に内にと拡がるMIDORIのヴァイオリン独奏に感激した。これぞヴァイオリン協奏曲だと。
私たちヨーロッパ人は、私たちの科学や芸術や文学が日本で広い心の熱心さで受け容れられているのに、繰返し驚かされます。極東の国が、進んで私たちをよく知り、私たちの思想や戯れを研究し、私たちから学び、私たちと精神的な交流を行おうとしているのを、私たちは承知しています。残念ながら、西洋の知識階級が同様に進んで熱心に東方の精神に親しみ、精通しようとしているとは申せません。たしかに、ヨーロッパ人のヴェーダンタ(吠檀多)信奉者や、ヨーロッパ人の仏教徒がおり、シナや日本の美術の愛好家、収集家もおります。しかし、東方の世界に対するこの愛は、小さい範囲に限られており、多くの場合不毛です。西方の現実的な困難から美しい夢の世界へのがれる一種の逃避なのです。ヨーロッパ文化の産物に対する日本の傾倒は、こういう逃避の性格を持つものでないことを、私は信じ、また希望します。
~ヘルマン・ヘッセ/高橋健二訳「幸福論」(新潮文庫)P244-245
「日本の私の読者に」と題するヘッセのメッセージは、実に本質を衝いたものだ。
ヘッセは最後に次のように書く。
今日では、日本人をキリスト教に、ヨーロッパ人を仏教や道教に改宗させるというようなことは、もはや問題でありません。私たちは改宗させたり、改宗させられたりすべきではありません。そういうことを欲しもしません。そうではなくて、心を開き、ひろげるべきです。そうしたいと思います。当方と西方の知恵を、敵意をもって抗争する力としてではなく、実り多き生命が揺れ合う両極として、私たちは認識するのです。
~同上書P246
僕の気のせいかもしれないが、ヒンデミットの音楽には西とか東とか、そういう概念を超えた中庸があるように思う。特にMIDORIが奏するヴァイオリンにそのことを強く感じるのである。終楽章の弾性にまたヒンデミットの懐の大きさを知る。何という美しさ。何という素晴らしさ。幸せだ。
MIDORI&エッシェンバッハのヒンデミット協奏曲(2012.10Live)ほかを聴いて思ふ