この劇がパリで初演される1784年までの3年間は、政府による上演禁止令が出ていたが、それこそ考えられる最高の宣伝にほかならなかった。ウィーンでは、反体制的という理由から、当時、その劇のほうはまだ禁止されていたが、モーツァルトには、イタリア・オペラの形に焼き直せば許可されるかもしれないし、その上、その劇が禁止されている限り、そのオペラ化は一般の興味を引くにちがいないという予感があったようだ。
~エドワード・J・デント/石井宏・春日秀道訳「モーツァルトのオペラ」(草思社)P112-113
ヴォルフガング・アマデウスのしたたかな先見。
そしてダ・ポンテとモーツァルトは、この偉大なフランス喜劇の持つ味わいをすべて取り除き、革命の予言劇を単なる色欲的な策略の物語にすり替えたという理由で、ある面でこれまで非難されてきたといえる。その反面、原作の政治的、嘲笑的でエロティックな要素を取り除き、すべてを貞潔で好ましく、愛らしいものに変えたと賞める向きもある。この芝居ないしはオペラをすでに古典だと考える人には、そんなふうな判断ができるだろう。しかし、1786年における《フィガロ》は、ボーマルシェにもモーツァルトにも古典ではなかった。ウィーンの聴衆にとって、《フィガロ》は現在の生活を描いた芝居であり、舞台はスペインに置かれてはいるが、たいした努力をしなくても自分たちの国の出来事に引き写して考えることができた。
~同上書P113
エーリヒ・クライバー、最晩年の不滅の記録。
先のクリップスによる「ドン・ジョヴァンニ」同様チェーザレ・シエピがタイトル・ロールを歌う。ウィーン風の典雅な調べは、古典としてでなく、あくまで現代の諸相の反映として物語を描こうとしたクライバーの先見であるように思う(この録音が永久不変であるのはそれゆえだ)。
40年前、初めて聴いたとき、序曲の推進力に(個人的には)途惑ったものだが、時を経て再び傾聴するとき、決して速過ぎず、また遅過ぎず、モーツァルトの意図を見事に汲み取った、聴衆の興味を引く音楽にとても感動した。そしてその思いは、今も変わらない。
音楽が発する活気、生命力、これぞモーツァルトの真髄と言わんばかりの可憐な(?)、しかし厚味のある演奏が繰り広げられる。
「フィガロの結婚」は名アリア、名重唱の宝庫。あっという間の3時間余りに感無量。
第1幕第5場第6番ケルビーノのアリア「自分で自分がわからない」
第1幕第8場第10番フィガロのアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」
第2幕第1場第11番伯爵夫人のカヴァティーナ「手を差しのべてください、愛の神様」
第2幕第3場第12番ケルビーノのアリエッタ「恋とはどんなものかしら」
第3幕第8場第20番伯爵夫人のレチタティーヴォとアリア「楽しい思い出はどこへ」
第4幕第10場第28番スザンナのアリア「恋人よ早くここへ」
まったく個人的な刷り込みと思い入れの類だろうが、やっぱりエーリヒ・クライバーの「フィガロ」は別格だと思う(クリップスの「ドン・ジョヴァンニ」といいこの頃のDECCAの仕事は抜群だ)。
クライバー指揮ウィーン・フィルのモーツァルト「フィガロの結婚」K.492(1955.6録音)を聴いて思ふ クライバー指揮ウィーン・フィルのモーツァルト「フィガロの結婚」K.492(1955.6録音)を聴いて思ふ ギラン・バレー症候群って?