私は光琳主題の小説を断念し、『背教者ユリアヌス』『春の戴冠』という権力と精神の対立を扱う主題に向った。その実現に前後10年の歳月を費やしたが、そうした難渋を極めた格闘のすえ、ようやく、美の中に身を置いていれば、全宇宙が崩壊しても、さして周章てることはないだろうという境地を予感するようになった。私はあくせくと何かに追い立てられるように外国に出かけたり、本をむさぼり読んだりすることはなくなった。とくにわざわざメロディを喚び起す形象を追い求めなくてもいいような気持になってきた。すべて与えられている風土、季節、時間、人々だけで十分ではないか、という気がした。
本当は、この地上に生れたとき、何もかも与えられ、美に十分恵まれていたのではないか—あるときそんな声を聞いたような気がした。私は肩の力が取れ、のびのびと息ができるようになった。
「未だ書かれざる小説の余白に」
~「辻邦生全集19」(新潮社)P231
辻邦生がついに「足るを知る」を悟ったのは50歳前後の頃だったと思われる。
孔子は「五十にして天命を知る」と言ったけれど、一方、僕たち凡人にあって60を超えてもまだまだ。
何にせよ「美の中に身を置く」ことを、そして「美について考える」ことを念頭に日々を過ごしたいとあらためて思う。
生きていたら71歳。
わずか40歳で交通事故死したニコラス・エコノムの天才。
きっと寿命だったのだろうと思う。
マルタ・アルゲリッチとの共演で世界的に有名になった彼のピアノは繊細でありながら堂々たる風趣で、アルゲリッチとほぼ対等に音楽に興じる様子に心が動く。
クリスマスの日に久しぶりに聴いた。
「くるみ割り人形」目当てだったが、僕はラフマニノフに持って行かれた。
セルゲイ・ラフマニノフが人生のほぼ最後に生み出した傑作は、仄暗さの中にもかすかな生の希望が垣間見え、美しい。異国ニューヨークでついに彼も「足るを知った」のか。
名曲の名演奏。
第1楽章ノン・アレグロは、重厚な低音部に対して諧謔的な高音部でお道化るエコノムの真骨頂。これほど生命力満ちる音楽表現があるのかどうか。
続く第2楽章アンダンテ・コン・モト(テンポ・ディ・ヴァルス)は、ワルツのリズムを刻みながらも憂鬱な旋律が悲哀を喚起する。しかし、何があろうと世界は美しい。吉凶禍福すべてが喜びなのだと最晩年のラフマニノフは気づいたのかどうなのか、相変わらず暗く美しい旋律に僕は感化される(ラヴェルの「ラ・ヴァルス」に匹敵する!)。
そして、「怒りの日」が引用される終楽章レント・アッサイ—アレグロ・ヴィヴァーチェの推進力、あるいは圧倒的なピアニズム! ここに内燃する熱狂はロシア的歓喜の最たるもの(アルゲリッチと拮抗するエコノムのピアノがついに一つに調和する)。
アルゲリッチ フレイレ ラフマニノフ 組曲第2番ほか(1982.8録音) くるみ割り人形