1998年以来12年連続で自殺者総数が3万人を越えるという(潜在的な数字を含めるともっとだろう)。いわゆる企業で働く労働者に限ってみても、1997年の6212人から翌年8673人に急増したのを皮切りにこれまでずっとほぼ横ばいで(8~9000人)推移している。
経営という視点からは巨額の賠償金支払いという労災リスクや企業イメージの悪化につながりかねないし、内部的にも職場の人間関係の悪化やサービスの質の低下、求職・離職の増加による生産性への影響など、企業においてメンタルヘルス不調問題はまだまだ大きな課題を含んでいるようだ。
メンタルヘルス対策として厚生労働省の指針には「4つのケア」が挙げられている。すなわち、社員自らが行うストレスへの気づきと対処(セルフ・ケア)、管理監督者が行う職場環境等の改善と部下からの相談への対応(ラインによるケア)、産業医、衛生管理者等による専門的な対応(事業場内産業保健スタッフ等によるケア)、EAP会社や相談機関などの外部の専門機関によるケア(事業場外資源によるケア)である。
この指針は2006(平成18)年3月公示ということだが、企業内で精神的な病に罹る労働者の数が一向に減らないところをみると、指針そのものが形骸化している可能性もあるし、実際に会社の中でどれだけの理想的な対処が正しく行われているのか少々疑わしい側面もある。
例えば、産業医に相談を持ちかけると、即座に「うつ病」だと診断され(僕が見る限りではとてもうつ病とは思えない人までうつ病と判断されている)、何種類もの薬を処方されるとよく聞くし、セルフ・ケアなどといっても、そもそも個人がストレスに気づくだけの余裕をもてないのだから難しい。ましてや、ラインの長が環境改善を指示されたとしても、目先の煩雑な業務が先行してそれどころではないということもあるだろう。
職場の環境改善という意味では、第一に「コミュニケーション」が挙げられるが、座学や単なるスキルの修得では根本的な改善には至らない。信頼や共感、受容、あるいは傾聴という言葉も頭では理解できても、それが実際にどういうことなのかを体験的にわからなければ絵に描いた餅である。
僕は20年間、この「コミュニケーション」について身体を通して勉強してきた。初めて出会った人同士でも、わずかな時間で心を開きあい、受け容れ合うことができるんだということを何度も経験してきた。手前味噌ではあるが、「ワークショップZERO」には企業内のメンタルヘルス不調の大幅改善につながるヒントやエッセンスが詰まっている。必ず役に立てる要素が満載だと自負する。
コミュニケーションの真髄(心と心をつなぐコミュニケーション)を知り、日常生活に導入することができたら、環境は大いに改善されるだろうし、仕事の能率も大幅にアップする。そして何より仕事、いや生きることそのものが希望に溢れ、楽しくなることは間違いない。
人は誰でも「孤独」には弱い。どんな人でも精神的に参ってしまう可能性をもっている。少なくともメンタルヘルス不調に陥らないためのケア(予防)を怠らないようにしたい。それには、やはり日常の「コミュニケーションの密度」を深めることだ。
話は変わるが、モーツァルトのホルン協奏曲がよもや絶筆であるとは思ってもみなかった。
あまりに明るい曲調だからだが、よくよく聴いてみると何とも言えない寂謬感に溢れている。若い頃、僕はホルン協奏曲集を愛聴した。純白の第1番と金色に輝く第2番をことのほか好んだ。高校生の頃はアラン・シヴィル盤をよく聴いた。そして、大学生になった時、デニス・ブレインを初めて聴き、まろやかで暖かい音に心底感動した。今聴いてもその時の想いが蘇る。
おはようございます。
地球から約6億キロ離れた小惑星イトカワの岩石採取に挑んだ日本の探査機「はやぶさ」が、幾度ものトラブル、危機を乗り越え、月への往復約8,000回に相当する約60億キロの旅を終え、7年ぶりに地球に帰還しましたね(6億キロとか60億キロという距離を、自家用車の走行距離で比較しますとね・・・、凄すぎます!! 信じられません!!)。
また、サッカーの日本代表は、とりあえずカメルーン戦には勝つことができました。
日本人は科学で世界をリードすることが必須で、どんなに苦しくとも、変な方向に現実逃避せず、逆境に立ち向かっていく勇気を持ち続けることも極めて大切なのだと、この二つの出来事には改めて強く教えられました。
ところで話は変わりますが、最近はクラシック音楽について市販されている、音楽学者や、プロの演奏家や、評論家の書いた大半の書籍や雑誌を、かったるすぎて、まるで真剣に読む気が起きなくなりました。だって、知りたい情報が全然入手できないんですから。
弦楽器のピリオド奏法の是非について(ポルタメントやヴィブラートの歴史的・地理的考察)の件もそうですし、ベートーヴェンの「エロイカ」のホルン3本とフリーメイスンの関係や、「バスティアンとバスティエンヌ」との関係の深い背景については、ネットなどで調べた事実を整理し、推理し、自分なりの結論に導いているのですが、仮にも音楽をネタにして飯を食っているプロの人たちは、本当にそういうことを知らなかったり、何も自分の頭で考えたことがないのでしょうか? ちょっと信じられない気持ちでいっぱいです。業界との癒着だけで生きているんでしょうね、特に音楽評論家なんていう人種は。彼らは本当に音楽を愛しているのでしょうか?
また、ホルン協奏曲が「レクイエム」とともにモーツァルトの絶筆だったという話以外にも、バッハの絶筆が一般に信じられている「フーガの技法」ではなく「ミサ曲ロ短調」だという事実も、ネットで調べればすぐわかるのですが、「レコ芸」を何十年購読しても、なかなか知ることができないというのは、執筆者や出版関係者の怠慢や勉強不足以外の何ものでもなく、これでは出版不況になっても仕方がないと思います。特に「レコ芸」には、古くからの根強いファンも多いのでしょうが、今のままの編集方針では、完全にその歴史的使命は終わっていると言わざるを得ません。
どうも、そう感じているのは、私だけではないようです。
モーツァルトやフォーレの「レクイエム」の版の問題についても、ネットで得られた知識が大半です。次のサイトには、特に多大な感謝しています。
http://classic.music.coocan.jp/sacred/faure/faureq.htm
http://www.ne.jp/asahi/jurassic/page/faure.htm
最初のサイトの管理者、山岸健一さんは、フォーレ「レクイエム」についてのページで、こう書かれています。
・・・・・・ネクトゥーの研究によれば、フルオーケストラ第3版のオーケストレイションは、全くフォーレの手によるものではなく、彼の弟子ジャン・ロジェ・デュカスが行ったことが明らかになっているというのだ(なお、この人は有名なデュカスとは別人である。)
ガーディナー盤・フルネ盤などの日本語解説や、「レコ芸」の記事には、そんな事は書いてなかった。「評論家」と呼ばれる人は、こうした情報をきちんと流してほしいものだ。・・・・・・
私もまったく同感です。
モーツァルトの4曲のホルン協奏曲、なぜ絶筆の1番だけ変ホ長調ではなくニ長調なのか?これもずっと謎だったのですが、6月8日付ブログ本文のコメントで御紹介しましたサイトの、これまたコメント欄を読んで、完全に「なるほど目から鱗」状態です。
・・・・・・モーツァルトがロイトゲープ(ロイトゲプ)の為に書いた作品群もこの4半世紀で随分研究が進んだものです。もし機会がありましたらイギリスのマイケル・トンプソンがNAXOS(8.553592、P1998)に入れた「モーツァルト:ホルンと管弦楽の為の作品全集」をお聴き下さい。モーツァルトが作曲した順に収録されています。もちろん1番は1番最後にきています。調性が他がすべて変ホ長調なのにどうして1番だけニ長調なのかご存知でしょうか?未完曲の「再構築」にあたったジョン・ハンフリーズがライナーで述べます。第3番が作曲された1787年当時、既にロイトゲープ(55歳、42歳?)は上のA以上の高音はご勘弁を、という感じだったそうで、1791年最後の年、書かれた1番は調性を下げて(E♭→D)作曲された、という訳です。何ともやさしい話ですが、替管を使わない現代のホルン奏者には指使いが複雑になって逆に難しくなりました。・・・・・・(以下略 夢中人さんのコメントより)
モーツァルトが、たとえ自分は辛くとも友人への優しさを最期まで失わなかったという、これは素晴らしいエピソードです。さっそく私もNAXOSのCDを何としても入手しなければ・・・、と思いました(笑)。
御紹介のデニス・ブレインの録音、いつの時代も「最高」だと、私も確信し続けている昔からの愛聴盤ですが、こうした作曲の経緯を知ると、ぜひ、もう一度聴きたくなりました(笑)。
>雅之様
おはようございます。
>日本人は科学で世界をリードすることが必須で、どんなに苦しくとも、変な方向に現実逃避せず、逆境に立ち向かっていく勇気を持ち続けることも極めて大切なのだと、この二つの出来事には改めて強く教えられました。
同感です!ほんとに自らの足で逆境に立ち向かう勇気って大切ですよね。
>だって、知りたい情報が全然入手できないんですから。
これについても、おっしゃるとおりだと思います。評論家の通り一遍の評論はいまとなっては退屈でしょうがないです。
>特に「レコ芸」には、古くからの根強いファンも多いのでしょうが、今のままの編集方針では、完全にその歴史的使命は終わっていると言わざるを得ません。
これは本当にそうだと思います。ここ数年の「レコ芸」は怠慢です。
>なぜ絶筆の1番だけ変ホ長調ではなくニ長調なのか?
これについては僕もずっと不思議だったのですが、そういうことだったのですね!!勉強になりました。ありがとうございます。
>モーツァルトが、たとえ自分は辛くとも友人への優しさを最期まで失わなかったという、これは素晴らしいエピソードです。
人間モーツァルトが垣間見ることができ、興味深いですね。
彼の音楽の深みの根底には他者への「想いやり」が詰まっているのでしょう。
[…] には合致しているのだろうが、時空を超えるモーツァルトの音楽にはそぐわない。モダン楽器による重厚な演奏に愛着を感じる・・・。今宵、冷たい夜風と戯れて酔いを冷ます・・・。 […]