フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル ブラームス 交響曲第1番ハ短調作品68(1947.11録音)

ビューローは「ブラームスとヴァーグナーは演奏における真の情熱を有した類のない存在であった」と書いているが、これはまことに当を得た観察である。意外なことと思われるが、ほんものの情熱はきわめて稀である。
(1945年)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音楽ノート」(白水社)P33-34

逆を言うなら、演奏する際に天才たちの作品に内在する情熱をいかに顕せるかどうかが演奏の優劣の鍵となるということだ。

フルトヴェングラーのブラームス、殊に交響曲第1番の、凝縮された形式から発露される熱波の如くの情感は、いつのどんな演奏においても謙虚だ。まさにビューローのこの言葉に即して巨匠はブラームスに対峙した。

「霊は魂の光だ」ブラームスは続けた。「霊は普遍的なものだ。霊は宇宙の創造的なエネルギーだ。人間の魂は、霊に照らし出されるまでは、魂自体の持つ力に気づかない。従って人間が進化し成長しようと思ったら、自分自身の魂の力をどう用い、どう伸ばすかを学ぶ必要がある。創造力に満ちた偉大な天才は、皆この方法を学んでいる。もちろん天才の中にも、この過程に気づいているとは思えない者はいるが」。
「一例を挙げれば」ヨアヒムが口をはさむ。「この上なく才能に恵まれた天才であるシェイクスピアやミルトン、ベートーヴェンは、自らが霊感を与えられていることに気づき、それについて記録を残している」。

アーサー・M・エーブル著/吉田幸弘訳「大作曲家が語る音楽の創造と霊感」(出版館ブック・クラブ)P11

ながらく表に出ることがなかった晩年のブラームスの言葉が重い。
他力と自力の合一。
完成までに20余年を必要とした交響曲第1番などは、まさにその典型なのではないかと思った。
フルトヴェングラーは音符の一つ一つに意味を持たせることの天才だ。
今やほとんど軽視されがちな1947年のウィーン・フィルとのSP録音でさえ、実に意味深い音楽が奏でられる。

それらの多くの草木が多くのすぐれた効能を持っており
なんらかの効能をもたぬものは一つもなく、
しかも効能は千差万別だ。

(ウィリアム・シェイクスピア)
~同上書P260

すべてに喜びを!
さすがの天才は森羅万象、宇宙の根源をしっかり捉えていたのだろうと思う。

・ブラームス:交響曲第1番ハ短調作品68
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1947.11.17-19&25録音)

堅牢な構成の中に内燃するブラームスらしいパッションをこれほどまでに意味深く音化できるのはフルトヴェングラーの天才をもってしてのことだとあらためて思う。
40余年前、僕が初めて触れたのは1952年2月10日、ティタニア・パラストでのベルリン・フィルとの実況録音盤(ドイツ・グラモフォン)だったが、ライヴのフルトヴェングラーにない冷静さの中に「音楽をする喜び」が一層刻印されるように感じられるのだから凄い。
おそらくあと何年かフルトヴェングラーに命が与えられていたなら、ブラームスの交響曲全集などスタジオ録音が生まれたことだろう(それもステレオ録音で)。

上記ベルリン・フィル盤が実に男性的な表現だとするなら、こちらのウィーン盤は極めて女性的な、柔和な表現に終始する。それがまたブラームスの母性的な部分を示しているようで僕にはとても興味深い。特に第1楽章ウン・ポコ・ソステヌートの序奏から主部アレグロ全編にわたって生命力を感じさせる点は、他の録音を圧倒するものだ。

もちろん第2楽章アンダンテ・ソステヌートはフルトヴェングラーの独壇場であり、あまりに美しい。

そして、一転、第3楽章ウン・ポコ・アレグレット・エ・グラツィオーソの愉悦から終楽章序奏アダージョから主部アレグロ・ノン・トロッポ,マ・コン・ブリオの激烈な表現も踏み外しなく、静かなパッションを湛え、見事に締め括られる。
おそらくぶつ切りの録音だったろうが、スタジオでのフルトヴェングラーもそれはそれでやっぱり素晴らしい。

フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルのブラームス交響曲第1番(1947.11録音)ほかを聴いて思ふ フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルのブラームス交響曲第1番(1947.11録音)ほかを聴いて思ふ

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