「先見」とはまさに未来を予測する能力だが、いや、予知能力などというちゃちなものでなく既に「そのこと」がその人の中に起こってしまう「必然」だと思うのだが、ジェルジ・リゲティはそういう「必然」をまさに体現した作曲家であったと僕は思う。どうやら今年は生誕90年のようだが、ヴェルディやワーグナーの影に隠れて、あるいはプーランク没後50年というモニュメンタル年ということですっかり忘れられがちのよう(90年というのはキリの悪い数字だから?でも90年生きると卒寿ということでお祝いがあるくらいだからもっと注目されなければ・・・)。
ご多聞にもれず僕がリゲティの音楽を意識したのはスタンリー・キューブリック監督作「2001年宇宙の旅」から。「アトモスフェール」や「ルクス・エテルナ」を聴いてぶっ飛んだ。いや、正直すぐには理解できなかったと言った方が良い。それでも「何か」を感じて根気よく聴き続けると、ある瞬間突然「わかる」のだから音楽というのは本当に面白い。マーラーもブルックナーも、ベートーヴェンだっていつもそうだった。
友人からお誘いが入り、日本橋三越本店で開催されている「信楽・奥田英山茶陶展」に行った。わが故郷は陶器の町でありながら、この方面にはまったく僕は疎い。でも、ひとつ何十万円もする茶碗や水指を拝見して、芸術としての緻密さとおそらく偶然にできる模様をいとも容易く事前にキャッチして作陶するであろうその「先見性」が、ジェルジ・リゲティのそれにとても似ているように感じられた。
学生時代の習作である4手のピアノのための5つの小品についてリゲティは語る。
すでにストラヴィンスキーの作品をいくつか聴いていたが、「弦楽四重奏のための3つの小品」は聴いたことがなかった。これは奇妙だ。というのも、私の「多声的練習曲」はその素朴な持続性において、ストラヴィンスキーの「3つの小品」の最初の曲を想起させるからだ。聴いていない曲から影響を受けるということもあるのだろう、それがその時代の「大気のなか」に漂っているような場合には。(リゲティ自身によるライナーノーツより、長木誠司訳)
これこそ「先見」。
そして、彼は1950年からブダペスト音楽院で教鞭をとる傍ら自身の技術を磨くためたくさんの多声的作品に取り組み、オケゲムやオブレヒト、ジョスカン・デ・プレ、ラッスス、フレスコバルディなどを研究したそうだ。それこそ「温故知新」。
ところで、特に60年代から70年代に書かれた作品は、いずれもリゲティの真骨頂。2台のピアノのための3つの小品の第2曲は「ライヒとライリーのいる自画像(背景にショパンもいる)」という挑戦作で、ミニマル的手法とショパンの変ロ短調ソナタのフィナーレが合体し、見事な新作として現出する(これこそアウフヘーベン!)。さらに世界初録音であった「ヴォルーミナ」はクラスターで始まり、その際一つの鍵盤列状のすべての鍵盤が押さえられ、その鍵盤列に係っているすべてのストップが稼働状態になるということで、エーテボリでの初演の際、電気回路が荷重オーヴァーになりオルガンが焼け落ちたらしい(汗)。何とプログレッシブな・・・。ジェルジ・リゲティは最高である。