未来の扉が開かれ、過去の扉が閉じられる。よってそこに残るものはいつも「現在」しかない。最初のものも最後のものも、46年という「間(ま)」があるのにいずれもショスタコーヴィチ的センスに溢れる。なるほど人の性質というのは変わらないもの。
しかし、人間は成長する。誰かの助けを借り、それを消化吸収しながら最終的に自らの力で歩み始めたそのときこそが「起点」。そして、そこを見逃さず一層力を注げば才能は爆発的に開花するのである。
時間芸術である音楽を聴くことは、常に「いま」を意識することに他ならない。作曲家が創造物を記号化した時点で一旦過去のものとして終われるが、しかし、僕たちが譜面を見ながら音楽を想像する時、そこには未来が出現する。そう考えると音楽を享受することが人間の想像力を掻き立て、同時に音楽が今この瞬間を謳歌するための道具(あるいは手段)として利用する価値の大いにあるものだということが確認される。
何年か前、シャルル・デュトワがNHK交響楽団とショスタコーヴィチの第8交響曲を演奏した時、僕はあの巨大な音楽に(それでいて繊細で緻密で)心底痺れた。おそらく彼はこの作品を録音で残していないと思うが、ここ数日、ベートーヴェンを想い、ショスタコーヴィチを考えるうちにデュトワの棒によるショスタコーヴィチを聴きたくなった。
ショスタコーヴィチの最初の交響曲と最後の交響曲がカップリングされた至高の名盤。
そういえば、19歳の時に書かれた交響曲第1番は古典的な構成を順守しつつモダニズムの影響も十分に音化されており、いかにも未来を見据えた傑作であるし、一方の交響曲第15番(65歳の時の作)は、過去の大家の作品から種々引用され、自作へのオマージュ的な楽想も散見され、こちらは生涯を全体俯瞰、次世代への啓示を表出しながら自身を回想するという形がとられ、真に興味深い。いずれも(とはいえ特に第15番)時に剽軽に自らを揶揄し、時に確信に満ちた響きにより聴く者を圧倒する音楽の大伽藍。
ショスタコーヴィチ:
・交響曲第1番ヘ短調作品10
・交響曲第15番イ長調作品141
シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団(1992.5録音)
第15番。これは一体何という音楽なのだ!古今の大作曲家の作品からの多くの引用は(もちろんショスタコお得意の行為だけれど)何を意味するのか?単に自身の振り返りか、それとも西洋音楽の先達への敬意か・・・。ただし、引用がロッシーニやワーグナーである以上、「自己陶酔」、「自己欺瞞」、「ナルシズム」への自省をアイロニカルに表現したものだとして良いのでは?
いきなりワーグナーの「指環」の「運命の動機」の引用に始まる終楽章が肝だろう。「運命」とはすでに確定しているもので、誰にもコントロールし得ず、ただ決められた道を抵抗せずに歩んでいけばいいのだ、否、それしかないとでもいわんばかりに。
しかしながらこの音楽、絶対に実演に触れない限りその真価を云々することはできまい(残念なことに僕はこれまでこのシンフォニーの実演に触れたことがないんだ・・・)。いずれ近いうちにその機会を得、繰り返し聴くことでいろいろな発見をしようと目論む。
ちなみに、デュトワの音楽は洗練の極み。
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