果たして「ギリシャの乙女」か?

早朝、今の時期なら太陽が昇り始める少し前の、薄暗い静けさの中で、突如としてその空気を破る微かな鳥の声がとても気持ち良い。それは、東京のど真ん中にも関わらず、とても「自然」を感じる瞬間。
今朝、いつものように瞑想最中、何の鳥だか不明だけれど囀りが聴こえた。ミーメのように鳥たちの言葉が理解できればいいのだが、残念ながら不可能。でも、何だかたったそれだけのことで不思議にも幸せな気分が味わえた。晩秋のことゆえ「愛の交歓」でもないのだろうけど(鳥の生態についてはよく知らないのでそのあたりはわからない)。

そういえば、僕は管弦楽の中でふっと浮かび上がるフルート独奏の瞬間がたまらなく好き。鳥の声を聞きながらそんなことを思い出していた。例えば、ベートーヴェンは「田園」交響曲の第2楽章コーダのところで木管に鳥の声の模倣を託した。中でフルートはナイティンゲールの声。この部分はとても有名だけれど、それ以外で心惹かれるのが、第4交響曲第1楽章の主題が再現部で奏されるあの瞬間とか、「レオノーレ」序曲の後半のあの超難所といわれるソロのところとか。鳥肌が立つほど感動を覚える。心躍るという表現でもいいかもしれない。それはもう10代の時から変わらず・・・。

作品60の番号を持つ変ロ長調交響曲。
当時僕が愛聴していたのは、ブルーノ・ワルターがコロンビア響と最晩年に録音した全集からの1枚とフルトヴェングラー&ウィーン・フィルによる東芝エンジェルのスタジオ録音盤。
この作品、歌劇「レオノーレ」や「ワルトシュタイン」ソナタなど、例の「遺書」後の「生まれ変わり(?)」期に書かれたもので、しかも既に作曲を開始していた第5交響曲や「田園」交響曲の筆を一旦止めてまで短期間で書き上げたということで、当時のベートーヴェンの恋愛がその引き金になっていると一般的に言われるが、「女性関係」という事情のほかにも彼の内側にある「自然や宇宙」への憧憬、あるいは畏怖というものがきっかけになっていそうだと僕は考える。

そうして久しぶりにフルトヴェングラー盤を聴いた。ロベルト・シューマンの言う「2人の北欧神話の巨人の間に挟まれるギリシャの乙女」という表現にぴったりなのはどちらかというとワルター盤で、フルトヴェングラーの方は相変わらずデモーニッシュで重い(乙女というよりこちらも巨人)。ワルター盤で聴くと確かに恋愛体験がこれを書かせたのだろうと想像できるのだが、フルトヴェングラー盤だともっと深い、哲学的な、それこそ神や創造主という目に見えないものへの讃歌として書かされたもののように思えてならない(それはかの超スローテンポの「田園」交響曲についても同様。あれは創造主への畏怖の念の音化だ)。

ベートーヴェン:
・交響曲第1番ハ長調作品21(1952.11.24,27&28録音)
・交響曲第4番変ロ長調作品60(1952.12.1-3録音)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

ちょうど60年前の今頃、ウィーンのムジークフェラインではこれらのシンフォニーのレコーディングが行われていたことになる。フルトヴェングラーの一連のスタジオ録音は冷静で大人しいと言われるけれど、人間ドラマを超えて、真に宇宙と対峙して音楽を再生したという意味ではEMIとの仕事に比肩できるものはない(と最近僕は思うようになった)。
確かにライブのフルトヴェングラーは鬼神が乗り移る如く凄まじい。それでも、これほどまでの客観的な佇まいと深い洞察とは、ベートーヴェンの心の声を聴く上で絶対的なものではないかと。やっぱりこれは恋愛音楽などではない。

※「パンの笛」が牧神を表すということは、フルートという楽器にも何らかの「意味」があるんだろうな・・・。


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