シノーポリ指揮シュトゥットガルト放送響の「ルー・ザロメ」組曲を聴いて思ふ

sinopoli_lou_salome何千年もこの世に生きさせてください!考えること、それをしたい!
生の二つのかいなに、わたしを抱きとってください。
生よ、あなたがもうわたしに幸せを贈れないというのなら、ええ、それも結構よ、
あなたはまだ苦悩を持っているのだから。
リンデ・ザルバー著/向井みなえ訳「ルー・アンドレーアス=ザロメ―自分を駆け抜けていった女」(アルク出版)P53

2人の固い絆の証しにして後世に伝えようとルー・ザロメの「生への祈り」と題するこの詩に、フリードリヒ・ニーチェは曲を付したという。ニーチェはザロメにとことん惚れ込んだが、その恋は叶わなかった。

僕たちが認識するこの世のすべては記号であり、概念だ。神もそう、愛や恋というものもそう。実際には、そこには何もない。

自由への門が開け放たれるとともに、死ぬまで男との愛欲の生活はしまいと心に誓った。それを、愛情あふれるレーにわかってもらうのは至難のわざでした。
~同上書P43

上は、パウル・レー、フリードリヒ・ニーチェと三位一体と称する三角関係にあった頃、ルー・アンドレーアス=ザロメが軽い自虐の意味を込めて記した言葉である。
ルー・ザロメという女性は不思議な魅力を持った人だ。
おそらくセックス・アピールだけでなく、実に明晰な頭脳と見事な感性を秘める女性だったのだろう、各界を代表する天才たちが彼女の虜になったことをみてもそのことは明らか。
彼女の晩年のメモが真に興味深い。

精力の発揮が叶わないと、それを諦めるストレスから、同じく精力と密に関わっている受精能力に勝るとも劣らない、魂の力が大いに発散される。
~同上書P41

多くの天才たちの間を行き来しながら、ルーは自身の思索を深め、調和のとれた統一体という理想に開眼したのだろう。

・シノーポリ:歌劇「ルー・ザロメ」
―組曲第1番(1983録音)
―組曲第2番(1987録音)
ルチア・ポップ(ソプラノ、ルー・ザロメ)
ホセ・カレーラス(テノール、パウル・レー)
ジュゼッペ・シノーポリ指揮シュトゥットガルト放送交響楽団

第1組曲では、パウル・レーとのやりとりの場面、そして、第2組曲ではルーの死のシーンと回想のシーンが採り上げられているのだが、この音盤にあってはやはりザロメ演ずるポップの巧さが光る。
退廃的な雰囲気を十分に醸し、内燃するエロスと魔性が見事に音によって表現されており、こういう作品を聴くにつけ、シノーポリの若くしての逝去が惜しまれる。
ポップとカレーラス、2人の歌は、まさにザロメの思想の如く、性愛から肉体を超え万物の統一体へと導かれるよう。

だから女らしさとは、・・・(男らしさより)完全な調和、より穏やかな丸み、ほっと癒されるような、より偉大な、取りあえずの完成と隙のなさをいう。それは男のぎりぎりまで貪欲に自分を伸ばし、専門的な活動に全力を傾け、いよいよ強く鋭く砕け散ってしまう安らぎのなさ、落ち着きのなさと、同一視することはできない。
~同上書P154

ルー・ザロメの思想の根幹は、男性的なものと女性的なるものの差を理解し、それぞれの性がそれぞれの能力を十全に発揮し、ひとつになったときにこそいわば魔法が生まれるのだというようなものだ。

性愛は肉体と心とを、自己と世界とを区別するすべてを超える状態へ導くが、それは断続的な状態に過ぎず、またしても人間は日常生活へと流されていかざるを得ない。芸術や宗教や性愛にあっては、意思のままにならないものや、抗しがたいものの果たす役割は実に大きい。・・・(中略)・・・これについてルーは、「だがそれらへの憧れこそがわれわれのすべての行いを決定づけるのだ」という。
~同上書P163

ジュゼッペ・シノーポリの「ルー・ザロメ」、果たしてどんなオペラなのか、舞台に触れてみたいもの。

 

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2 COMMENTS

雅之

シノーポリ「ルー・ザロメ」は未聴です。

が、しかし、
ルー・アンドレアス・ザロメ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%AD%E3%83%A1
と、
アルフレッド・アドラー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%BC

この心理学史に出てくる著名な二人に接点はなかったのか、あったとしたらお互いの思想をどう思っていたかについて調べたくなりました。
というのも、二人の経歴を上記Wikipediaで安直に調べると、

「1911年、彼女はワイマールで開催された国際精神分析会議に参加した後、フロイトの下で精神分析の知識を深めようとする。その後、彼女の夫がゲッティンゲン大学に招聘を受けたため、そのゲッティンゲンで彼女も精神分析の分析家として開業をする」(ルー・アンドレアス・ザロメ)

「1911年、アドラーは主だった仲間と共にフロイトのグループと決別し、自由精神分析協会を設立した」(アルフレッド・アドラー)

と、すれ違いのようなので、このあたりを掘り下げて知りたいです。

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岡本 浩和

>雅之様

まさにそこなんです!
最近ルー・ザロメに興味を持ち始め、シノーポリ盤を聴くと同時に彼女にまつわる文献を少しずつ読み始めたのですが、実に興味深く、奥深いです。ちなみに、本文で採り上げた書籍には次のような件があります。

1902年から水曜日の研究討論会に出席していたアードラーは、1911年にフロイトとその精神分析のグループから離れて、アードラー独自の個人心理学、つまり心のさまざまな関わり合いは劣等感と権力志向との緊張ゲームのうちに組み立てられるという理論に基づく心理学を築いた。ユングも1912年から1913年にかけて、フロイトと袂を分かった。ユングは、(フロイトの)精神分析は神話やメルヒェンといった、複雑な文化現象の価値を大切にする余地をごくわずかしか残していないと批判し、彼はそれを不満にももっていた。この論争で、ルーはためらうことなくフロイトの側に立って、離反していった者たちのことを遠慮会釈なく非難した。
P187

フロイトとも関係があったそうですから、もっと精査するといろいろと面白い事実に突き当たるかもしれません。
僕もより掘り下げてみようと思います。
ありがとうございます。

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