ふと頭を過った妄想を・・・

少し翔んだことを書く。ふと頭を過った妄想。ゆえに根拠も何もないので悪しからず。

信仰というのは、そもそも何ものにも規定されるものではない。組織に属そうが属すまいが、個人の内側に確実に存在するか否かというものである。あるいは仮に何らかの組織(宗教、非宗教問わず)に入っていたとしても、熱心に、いわば信者の如く関わるか、一種冷静に客観的なスタンスで関わるか、それがどのような姿勢だとしても、その個人の信仰の深さとは比例しないものだろうと僕は考える。

突然なぜそんなことを思ったのか。
ここのところのマイ・ブームであるハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの創造物と、おそらく彼らの共通点であるフリーメイスンに入会していたという事実についていろいろと考え巡らせているうちにそんな考えが湧いて出たのである。
文献を繙いてみると、中でモーツァルトは間違いなくフリーメイスンであり、しかも相当な信者(という言い方が正しいかどうかはわからないけれど、ここではあえてそのように表現させていただく)だった。ハイドンはモーツァルトに誘われ入会するも、わずか1年後には脱会したとも言われている(事の真偽は不明)。ベートーヴェンに至っては、そういう説が囁かれるだけで、確かな確証はほとんどないと言って良い。

そもそもフリーメイスン自体が、秘密結社だとかイルミナティだといわれるが、これも真偽は別にして僕はひとつの友愛団体に過ぎないのではと思っている。ただし、この「友愛」という言葉の定義が問題。会員資格として「信仰の対象を持つこと」が規定されていることからすると、宗教そのものではないにせよ神や偉大なるものを信じる心を持ち、自然も人間もすべてはつながってひとつであるという意識にあるかどうかが重要なのか(勝手な推測だけれど)。だから、彼らがフリーメイソンに関わっていたかどうかということより、サムシング・グレートなどといわれる宇宙を司る偉大なものに対して彼らがどれだけ知覚し、通じていたかということの方が今の僕には一層興味深い。多分3人とも創造主への信仰には篤かったろう。しかし、「上」に対する現実的なかかわりの度合い、あるいは方法は三者三様だったということだ。

やっぱり、「魔笛」にせよ「フィデリオ」にせよ、世界がそもそもひとつであり、人類の解放と目覚めを促すことを目的に生み出されたものではないのか。「天地創造」も「四季」もそういうものだと思えてならない。

ハイドンは、表上はフリーメイスンを抜けたのかもしれない。ベートーヴェンは入会したことすら公にすることがなかったのかも。でも、そんな事実はどうでも良いのである。果たして彼らの内側にある「信仰心」がどれほど大きかったかということに比べれば。結局のところ、享受する我々が彼らの音楽に宿る「宇宙的」なもの、つまり「すべてがひとつに還る」ということをいかに読み取れるかである。

嗚呼、荒唐無稽(笑)。
薄い雲に霞んだ満月を見上げながら、そんなことを考えた。
今宵は昨日に引き続きバックハウスの旧い方の録音でいわゆる三大ソナタ。何と深い「月光」か・・・。

ベートーヴェン:
・ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調作品27-2「月光」(1952.10録音)
・ピアノ・ソナタ第8番ハ短調作品13「悲愴」(1954.3録音)
・ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調作品57「熱情」(1952.4録音)
ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)

18世紀から19世紀前半のウィーンで活躍した3人の大作曲家の音楽を並べて聴いてみるとよくわかる。彼らはフリーメイスンのみならず、そもそもスピリチュアル的に1本の糸で結ばれ、つながっていた。

明日以降に書くつもりだけれど、バックハウスの弾くモーツァルト、ハイドン、ベートーヴェンを並行して聴くと、同じ気配(それはピアニストが同じだからではなく音楽のもつエナジーが同種だということ)が感じとれる。音盤をお持ちの方は、試しにハイドンの変ホ長調ソナタとベートーヴェンの変ホ長調ソナタ「告別」、そしてモーツァルトのK.282(変ホ長調)をバックハウスの演奏で続けて聴いてみてください。


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