冬の日の幻想

冬至である。何年も前から騒がれている「マヤ歴」の最後の日だということや、この時期フォトン・ベルトに3日間覆われて天変地異が起こるとか、いろいろと言われてきたが、ともかくその当日である。目に見える形では「何も」起こっていない。でもやっぱり早朝に瞑想したらば違った。「何か」が少しずつ(なのか一気になのかはわからないけれど)変化しているのは間違いない(のだと思う)。それが地球のアセンションと言われるものなのかどうなのかわからないけれど、今日は一日大人しく過ごすことにして(所用で銀座に数時間ほど足を延ばしたけれど)静かに音楽を聴いた。

そういえば、フルトヴェングラー&バイロイト祝祭管による第9の1954年正規実況盤がタワーレコードの店頭に並んでいた。少しばかり試聴してみて吃驚した。予想通り音は悪い。でも、アダージョ楽章の冒頭を試しに聴いて思った。死の3,4ヶ月前のフルトヴェングラーは悟っていたんじゃないかと。音楽が一際清澄で、しかも一切の力みなく本当に「空(くう)」に在るよう。未だ手元には置いていないが(前日のリハーサル風景がボーナス・ディスクで付くらしい国内盤の発売を待っているということ)、じっくり聴いた暁には何かしら書いてみようと思う。

ところで、先日、仙波知司さんの紹介で橋口正さんにお会いした。橋口さんにはFacebook上では毎々高度で的を射たコメントをいただき、勉強させていただいているのだが、その日、ここぞとばかり一献傾けながら黙ってともかくいろいろと伺った。予想通り音楽を含め僕など及びもつかない博識とご体験をお持ちの方(少なくとも10代までは音楽で飯を食べていこうと志されていたそうだし、作曲や編曲もお手のもの、もちろんピアノ演奏もそこいらの生半可なピアニストより1枚も2枚も上手のよう)。

数時間の宴の最中、どうしてそういう話の流れになったのか、少し酔いも回っていたので記憶が薄いのだけれど、チャイコフスキーの話になった。橋口さん曰く、チャイコフスキーは「ハ短調」に、つまりはベートーヴェンに相当のコンプレックスを持っていたんだろうと思うと。なるほど、確かに彼はベートーヴェンのモットーである「苦悩から解放へ」をなぞって自身の第5交響曲を作曲している。しかも一般聴衆の反応は上々であるにもかかわらず専門家諸氏が否定的な見解を示したものだから、この傑作を「失敗作」だと自ら烙印を押した。

「あの中には何か嫌なものがあります。大袈裟に飾った色彩があります。人々が本能的に感じるような拵えもの的な不誠実さがあります」(1888年11月、フォン・メック未亡人宛手紙)

僕に言わせれば単なるメンタル・ブロック、すなわち「思い込み」だ。こうやって彼はベートーヴェンの壁を「精神的に」乗り越えることができなかった。
そういえばチャイコフスキーの「ハ短調」交響曲への挑戦は実は第5交響曲を遡ること15年前、いわゆる「小ロシア(ウクライナ)」と呼ばれる第2番の交響曲において。あの日もこの曲のことからチャイコフスキーの「ハ短調」コンプレックスの話に及んだ(どうしてここからコンプレックスの話につながったのかまったく思い出せない)。
とはいえ、僕自身、「小ロシア」に関しては第1楽章主部の主題など昔から妙にシンパシーを覚えるのだけれど、いまひとつ聴き込みが足りない(この際、「♭3つについての考察」という宿題が出ているので、時間を見つけ都度聴いていこうと思っている)。それよりも、チャイコフスキーの初期交響曲の中で僕が愛して止まないのは第1交響曲。ここには先達ボロディンの影響がみられ、後のラフマニノフにも通じるあまりにロシア的な憂愁がある。それに、やっぱりチャイコフスキー作なんだということが一聴わかる「白鳥の湖」の木魂も聴こえる。

チャイコフスキー:
・交響曲第1番ト短調作品13「冬の日の幻想」(1993.6.8Live)
・序曲「1812年」作品49(1992.6.22-25Live)
ボリショイ劇場管弦楽団金管セクション
エフゲニ・スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団

最初の版が不評だったたったため、何度も改訂されて世に出た代物。現在一般的に演奏されるのは1874年に出版された第3稿で、よってチャイコフスキーが既にある程度の作曲技術に磨きをかけ、一流作曲家として認知されつつある時期のものと考えて良い。確かにバランスに欠け、冗長に聴こえるシーンもなくもないが、それ以上に楽想の豊かさに舌を巻く。チャイコフスキー好きなら間違いなく惚れてしまうだろう音楽。

「この私の作品をご存知かどうかはわかりませんが、たとえ多くの点できわめて未熟であるにしても、他のたくさんの熟達した作品よりも内容豊富で優れています」(1883年11月15日付、フォン・メック未亡人宛手紙)

チャイコフスキーは謙虚過ぎるんだ。自己卑下的「思い込み」さえなければとっくにベートーヴェンを超えていたかも(両者の比較はそもそもナンセンスだけれど)。


2 COMMENTS

畑山千恵子

私はスヴェトラーノフのチャイコフスキーツィクルスを聴きに行きました。チャイコフスキーその人をあからさまにした演奏で、後半が第6番「悲愴」で、まさにチャイコフスキーの始まりと終わりでしたね。

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