没頭すること

asahina_shostakovich.jpg「音楽現代」7月号を斜め読みしていて、野口剛夫氏の「フルトヴェングラーの遺言」という連載記事に目が留まった。「比較でなく没頭を」というタイトルで巨匠の遺稿(手帳に書き残したメモ)が紹介されている。

「人は芸術作品に没頭しなければならない。・・・没頭するとは愛することに他ならない。愛とは品定めや比べたりすることのまさしく対極にある行為であり、比較を絶したかけがえのない本質を見抜く。白日の下にさらして評価しようとする冷たい知性の世界は、比類ない芸術作品の価値をまるで理解できないのだ」(1937年の遺稿:野口氏訳)

なるほど、比較-つまり他人の目を気にしたりしているうちは「一心不乱」になりきっていない。「一心不乱」になれないものは「愛」ではないということか・・・。そういえば残された映像や写真を見てみても、フルトヴェングラーの演奏中の没頭ぶりは並大抵ではない(ように見える)。宣伝相ゲッペルスの前で演奏する戦時中のベートーヴェンの第9のラストの演奏然り、戦後、ロンドンでのブラームスの第4交響曲フィナーレのリハーサル映像然り。もちろん、彼の数多ある商業録音や放送録音のどれをとってみても、恐ろしいまでの集中力と作品や作曲家への「愛」を貧しい音の中から確認することができる。

今日は、我が敬愛する朝比奈隆氏の生誕100年、まさにその日である。朝比奈先生はその言葉通り、まさに死の2ヶ月前まで現役生活を貫いた気骨ある明治の男そのものの生涯を送った。先生が世界に冠たるブルックナー解釈者になりえたそのきっかけとして、これも亡くなる数ヶ月前のフルトヴェングラーとの偶然の邂逅、そして巨匠からのアドバイスがあったことは有名な話だ。当時、ブルックナーの第9交響曲を演奏するに際し、一般に流布していたスコアは弟子たちの手の入ったいわゆる改訂版(改竄版)。「原典版で演奏しなさい」という言葉を受け、急遽調べたところ似ても似つかない音符の並びに驚嘆したという。とはいえ、そこは素直な御大。きちっとこの楽譜のパート譜を作成し(当時は手書き!)、オリジナルで演奏したというのだから大したものである。先生の愛した「愚直」という言葉通り、真面目に、しかも作品を「愛し」、生涯愛する音楽に捧げた生き方はまさに「鑑」である。

ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ニ短調作品47「革命」
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団(1981.2.16Live)

1年程前だったか、タワーレコード限定販売で復活した朝比奈&大阪フィルの残した唯一のショスタコーヴィチ録音!伝説の名演奏といわれる、これも朝比奈唯一の録音であるマーラーの第8交響曲(独唱にはゲルハルト・ヒュッシュが特別に参加しているし、何と合唱指導には宇宿允人(!)の名前までがクレジットされている)とのカップリングでたったの¥1,500とは!
肝心のショスタコの演奏。素晴らしい。第1楽章冒頭からフィナーレ最後の一音までその「没頭」ぶりは半端じゃない。まさにフルトヴェングラーの言う「愛」を感じさせる、知る人ぞ知る名演奏。ただし、レニングラード・フィルやニューヨーク・フィルと比較し、アンサンブルの乱れや技術的な問題はある。そういうことを抜きにしてもショスタコの第5を語る上で重要な音盤であると僕は確信する。

ところで、今日のランチは渋谷宮益坂の和食店にてKと。2時間ばかり語って別れたあと、今度は松涛に移動し、Dと彼の事務所で懇談。「朝型と夜型の違い=朝型は先取り型、夜型は後回し型。朝型の方が得だから、自分は朝型にしている」とのこと。なるほど、名言。

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