物理学者のデヴィッド・ボーム博士は、1980年代に既に「参加型思考」―いわゆるスピリチュアル的思考の重要性を説いている。おそらく当時はそういうものがどちらかというとまだまだ否定的にみられていた時代で、世間一般的には理解され難かったと推測するが、30年を経てようやく時代が追いついたのではと思われる。この考えは「ダイアローグ」の中で論じられていることだが、対立から共生に移行するために「対話」が必要であり、しかも「具体的思考」―いわゆる三次元的思考に偏り過ぎると真の意味での共生は生れ得ないと彼は言うのである。
そして、その論の中で彼は次のように語る。
太古から人は常に自然や宇宙論、宗教に心を向けてきた。自然が個人や社会を超えるものだと信じられていたのだ(人はあらゆるものに生命が宿り、霊魂があるとかんじていた)。ところが、自然の場から町に移動するようになり、そういう考えを失ってしまった。その喪失感を埋めるために生まれたもののひとつが芸術であり、そこにはおそらく宇宙とのつながりがある。(「ダイアローグ」第7章から抜粋要約)
「クレド」の日本盤にはボーナス・トラックとしてJ.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻からハ長調の前奏曲が収録されている。確かにペルトの壮大な音絵巻で締めるべきだろうが、ペルト自身がバッハのこの作品を拝借しているという点から考えてみると、なるほどこの試みは意外に的を射ているものと考えていいのではないか。いわゆる(現在一般に聴かれている)西洋古典音楽システムがバッハのこの作品集によって完成されたこととバッハの偉大さをあらためて認識できることが何より大きい。
特に、ケーテン時代のバッハは、音楽愛好家のレオポルト侯の下で宮廷楽長を務めただけあり、その創作物は世俗作品が多くを占め(侯とは宗派が異なり、宗教作品を書きたくても書けなかったことも理由の一つ)、協奏的作品、室内楽作品、あるいは独奏もの、そしてクラヴィーア作品と多岐に亘る。そして、それぞれが類稀な傑作たちであることが真に驚異。
バッハの作品はまさにボームの言う「参加型思考」と「具体的思考」のバランスが見事にとれたものだ。すべてがつながり、ひとつになる。それはバッハの生き方そのものにも等しい(創作を生きる糧とし、生活のために多数の宗教作品を書き上げ、自身と家族、あるいは周囲の人々の安寧のために多くの世俗作品を書いたことがそのことを証明する)。
クラウディオ・アバドがモーツァルト管弦楽団と演奏した「ブランデンブルク協奏曲」を観た。それぞれの作品において、楽員が極めて自発的に動きながら、各々によって丁丁発止のやり取りが展開される。その上で、アバドが緻密なコントロールを施すという大いなるバランスの上でこの演奏が成り立っているということだ。
J.S.バッハ:ブランデンブルク協奏曲BWV1046-1051(全曲)(Blu-ray Disc)
クラウディオ・アバド指揮モーツァルト管弦楽団(2007.4.21Live)
アバドは大病後ほんとうに変わった。生み出す音楽がいつも「自然体」で聴いていてとても心地良い。決してカリスマ的牽引力で引っ張るようなそぶりを見せず、楽員の自由な発想にほとんどを任せながら、創造の手綱捌きは怠りなくという潔さ。まだまだ老練という歳ではないが、見事という一言に尽きる。そのことは実に矛盾を孕むのだけれど(笑)、指揮者なしの第6番変ロ長調にて如実に表れる。何と演奏者が愉悦的なことか(すべてはアバドの管理のもとにあると僕は思う。アバドは本当にすごくなった)。