マリア・カラスのベッリーニ歌劇「ノルマ」(1954.4-5録音)を聴いて思ふ

bellini_norma_callas_1954745後年の声質とは異なる。
おそらく当時の彼女は、体格も随分と大きかったのだろう。後のか細さの中にある透明な力強さとは明らかに違う何とも骨太の歌。
ここには人間的な弱さと強さが相対する。マリア・カラス渾身の歌唱は壮絶でまた悲しい。あまりに人間っぽくて魅力的な声は確かに聴く者の心をとらえる。

本を書いてもらえるなんて、内心ではすばらしいことだと思っているし、実際にすばらしいことなんでしょうね。でも、私には過ぎることだと思うのです。本に書かれるというと、すごく偉そうな印象を与えてしまいますが、私は偉大な音楽を自分なりの解釈で演じる者にすぎません。現に、自分はなんて平凡なんだろうと思ったり、くよくよ悩んだりしています。それというのも、私はほとんど到達不可能といえるような基準をみずからに課しているからです。公演のたびに、聴衆は熱狂してくれるけれど、本人はもっとうまくやれたはずだと感じているのですから。
(マリア・カラスからステリオス・ガラトプーロス宛手紙)
ステリオス・ガラトプーロス著/高橋早苗訳「マリア・カラス―聖なる怪物」(白水社)P12-13

謙虚さに同居する絶え間ない努力こそ天才の証。
カラスは自らの芸術を永遠にするために身を削り、精進した。実際、瘠せてからの彼女の歌は見事に神々しい。
急逝する2ヶ月前のマリア・カラスの言葉に納得する。

私の伝記は、私が演ってきた音楽のなかにつづられているんです。音楽こそ、私が自分の芸術と人生を表現できる唯一の方法なんですもの。それに、真価のほどはどうであれ、レコードが私の物語を刻んでくれているわ。
~同上書P13-14

カラスにとって音楽はすべてであった。
若き日に録音した、彼女の十八番であるベッリーニの「ノルマ」が素晴らしい。

・ベッリーニ:歌劇「ノルマ」
マリア・カラス(ノルマ、ソプラノ)
マリオ・フィリッペスキ(ポッリオーネ、テノール)
エベ・スティニャーニ(アダルジーザ、メゾソプラノ)
ニコラ・ロッシ=レメーニ(オロヴェーゾ、バス)
パオロ・カローリ(フラーヴィオ、テノール)
リーナ・カヴァッラーリ(クロティルデ、ソプラノ)
ヴィットーレ・ヴェネツィアーニ(合唱指揮)
ミラノ・スカラ座合唱団
トゥリオ・セラフィン指揮ミラノ・スカラ座管弦楽団(1954.4.23-5.3録音)

第2幕第7場、オロヴェーゾと合唱による「戦いだ、戦いだ」の美しい旋律に痺れる。

戦いだ 戦いだ!ガリアの森は
そのカシの木と同じ数だけの戦士を擁している。
羊の群れに飢えた野獣が襲い掛かるように
ローマ人の上に彼らは襲い掛かるだろう!
ウェブサイト「オペラ対訳プロジェクト」

そして、自分の裏切りを含め、すべてを打ち明けるノルマの絶唱(ポッリオーネとの二重唱を含む)に感動。巫女の長ノルマに扮するカラスの歌は、覚悟を決する最後の最後で深遠を獲得する。

司祭たちよ、
私は罪を犯しています。

嗚呼・・・、人間とは所詮弱い生き物だ。

 

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2 COMMENTS

雅之

ご紹介の、カラスの手紙に書かれていたという、「すごく偉そうな印象を与えてしまいますが、私は偉大な音楽を自分なりの解釈で演じる者にすぎません・・・」に、朝日新聞連載コラム、鷲田清一「折々の言葉」で紹介されていた、三谷幸喜の言葉を連想しました。

「彼らは本物がいないと成立しない。そして絶対に本物を越えることはない。それを分かっていながら、ひたすら己の芸を磨く」(『エノケソ一代記』の公演パンフから)

http://www.asahi.com/articles/ASK1J4VP4K1JUCVL01W.html

これは、作曲と演奏が分業となった、クラシック演奏家の宿命でもありますね。

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岡本 浩和

>雅之様

良い言葉ですね。ありがとうございます。

>作曲と演奏が分業となった、クラシック演奏家の宿命

そういうことになりますか・・・、はい。

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