ピエール・モントゥーの「エロイカ」はとても最晩年の録音とは思えないほど溌剌とし若々しい。それと、第1楽章コーダの例のトランペットが主題を吹く箇所も、おそらく当時としては珍しく原典通り木管に吹かせているところが逆に新鮮で興味深い。
彼のこの録音を聴いてわかった。
あくまで僕の勝手な空想に過ぎないが、本日ある体験を通して果たして当時のベートーヴェンの内側に起こったこともそうだったのではないのかと感じ、すぐさまモントゥーの「エロイカ」を思い出したのである。
人は誰しも身体の内側に「自己」があると考える。ところが、「自己」の内側に身体があるとしたなら、外気も他人も実は自分の内に在るという感覚になれる。つまり、全体の中に部分があるのではなく、部分の中に全体があるということだ。それはいわば孵化のような状態だろう。認識の「枠」を破り、外に出る、蛹が脱皮して蝶になるかの如く。
ベートーヴェンは1802年の「ハイリゲンシュタットの遺書」を認めることで脱皮をしたのでは?そんなことを考えた。そして、自らのその脱皮体験を「エロイカ」交響曲の、例えば第1楽章コーダの主題ファンファーレに託したのではないのかと考えたのである。つまり、トランペットが高らかと鳴らされる主題が繰り返しの際は木管に移され、いかにもオーケストラの総奏に主題が埋もれ、姿を隠してしまうように思われるあの箇所は、主題(部分)と全体を「ひとつに」してみせた、その象徴なのではないかと。
ゆえに、あれは誤植でもなく、作曲家のミスでもない。楽聖はあえてそういう方法をとって「すべてがひとつであること」を証明してみせようとした。
もう何千回聴いたのか数え切れない。実演でも何度も。僕の「エロイカ」のスタンダードは相変わらず最初に聴いたフルトヴェングラー&ウィーン・フィルハーモニーによるスタジオ録音盤だけれど、あのフルトヴェングラーでさえ当時の慣習に従ってコーダのファンファーレ主題をトランペット改訂版で演奏していることを考えると、音楽的には確かにその方が雄渾で聴き応えが増すということは理解できる(アーノンクールなどは「英雄の失墜死」などと捉えているようだがそれこそとってつけたような解釈だ)。
主題という個を全体と融け合わせることで、英雄が「ひとつになる」ことを言明したのだと、つまり、第9交響曲の最終的な理念を、既にこの頃に体現していたということだ。もっというなら、ベートーヴェンの「エロイカ」以降の交響曲すべてにはそのことがメッセージとして隠されているのではないかとも考えた。そういう点もベートーヴェンの「革新」なり。また楽しみが増えた。
ちなみに、「喜びの歌」の一節には次のような個所がある。テノール独唱の場面。意味深い。
よろこびにあふれて、ちょうど満天の星々が
壮大な天の夜空を悠然とめぐるように、
同胞よ、おまえたちも与えられた道を歩むのだ、
よろこびに勇み、勝利の大道を歩む英雄のように。
(訳:喜多尾道冬)