サヴァリッシュ指揮バイロイト祝祭管の「ローエングリン」(1962Live)を聴いて思ふ

wagner_lohengrin_sawallisch152心が揺れるとき、拠り所が欲しいとき、頼りになるのがリヒャルト・ワーグナー、それも僕にとっては「ローエングリン」もしくは「パルジファル」が相応しい。

歴史は繰り返す。
ワーグナーはギリシャ悲劇の凋落がもたらす芸術の危機は、広義でいうところの人類の危機につながるものだと説く。なるほど、それから百数十年後の現代にまさに起こっている例えばギリシャ国家の経済問題は、それこそ彼が予言した資本主義の黄昏を示唆するもので、宇宙(自然)が僕たちに知らしめる大いなるサインの一つであるといえまいか。
ワーグナーが1849年に著した「芸術と革命」には、いわゆる経済第一主義の社会の中で産業化し、あまりに堕落し行く芸術への警告が叫ばれる。そして、今こそ革命の名のもと立ち上がるべきだという独自の思想も刻まれるのである。

自然の頂点に座を占めていた自由なギリシャ人は、人間そのものへの喜びから芸術を創造することができた。自然と自分自身とを等しく否認したキリスト教徒は、諦念の祭壇でしか彼らの神に犠牲を捧げられなかったし、自らの行為や働きを神への供物として献じることも許されず、むしろ自立した敢然たる活動をすべて断念することによって、神の恩寵を得なければならないと信じていた。芸術とは、自己自身および自然との調和のなかで感覚的に美しく成長した人間が行う至上の活動である。
三光長治監訳/ワーグナー「友人たちへの伝言」(法政大学出版局)P12

ワーグナーは、キリスト教、つまり宗教(にすがること)からは真の芸術は生まれ得ないと言う。あるべきは自然との調和なのだと。

つまりキリスト教的ヨーロッパ世界の芸術は、ギリシャ世界の芸術のような完璧に調和した世界の統一性の表現とはなりえなかったのだが、その理由はまさに、キリスト教的ヨーロッパ世界が、深奥において、治癒も宥和も不可能なほど、良心と生命衝動、空想と現実とに引き裂かれていたことにあったのである。
~同上書P13

そう、人間の浅薄さによって形骸化する宗教こそが世界の調和を奪ったのだというのである。

これが現代の文明化した世界を隅々まで充たしている芸術なのだ!その真の本質は産業であり、道徳上の目的は金儲けであり、美学上の表看板は有閑階級の慰安である。
~同上書P17

こうして見ると、すべてが嘆かわしいのだが、しかし底意がなく、真実で、誠実である。つまり、これは文明化した堕落であり、現代のキリスト教的痴呆なのである!
~同上書P19

大いなる人類革命の開始が、かつてはギリシャ悲劇を崩壊させたのだが、まさにこの人類革命によってのみ、私たちはこの芸術作品を獲得することができる。
~同上書P30

若きワーグナーがどういう思いでドレスデン蜂起に加わったのか、その意図がこの小論から十分汲み取れる。僕は、同じ時期に生み出されたロマン的オペラ「ローエングリン」に、当時の彼が深層に秘めていたそれらの想いが隅々に渡って刷り込まれていたことをあらためて発見する。
気高く透明な第1幕前奏曲は彼の生み出した音楽の中でも最高のもののひとつだ。

・ワーグナー:歌劇「ローエングリン」
ジェス・トーマス(ローエングリン、テノール)
アニヤ・シリア(エルザ・フォン・ブラバント、ソプラノ)
アストリッド・ヴァルナイ(オルトルート、ソプラノ)
ラモン・ヴィナイ(フリードリヒ・フォン・テルラムント、バリトン)
フランツ・クラス(国王ハインリヒ、バス)
トム・クラウゼ(王の伝令、バス)
ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮バイロイト祝祭管弦楽団&合唱団(1862.7-8Live)

エルザ:
貴女は経験したことがないのよ、
ただ信ずることだけで私たちに与えられている幸運を。
さあ戻ってらっしゃい!教えてあげるわ、
清らかな真心の喜びがどんなに甘いものかを!
あなたもキリスト教に改宗することです。
後悔のない幸福があるのです!

オルトルート:
フン!この誇り、
それが教えてくれるのさ、
どうやって彼女の誠実さをやっつけるかを!
彼女の誇りこそ攻撃の的、この高慢を後悔にかえてやる!
井形ちづる訳「ヴァーグナー オペラ・楽劇全作品対訳集第1巻」P242

鍵は第2幕第2場。エルザとオルトルートの二重唱が見事にひとつになりゆく箇所に、清らかなるエルザに邪な心を、一方のオルトルートの魔性に真実を垣間見る。キリスト教にとらわれるエルザは疑念から、禁止される夫ローエングリンの身元を問い詰めたことで、結果彼を失う(ご存じのとおり、終幕最後でローエングリンは静かに彼女のもとを去ることになるのである)。
「ただ信ずること」だけでは駄目なのだ(高慢はもっと駄目)。

それにしてもバイロイト祝祭劇場の響きのまろやかなこと!第5場の王の登場のシーンにおける壮大で高貴な音楽に感銘を受け、幕引きに至るまでの迫真の劇進行と最後の伴奏オルガンの清澄な音色、高々と鳴り響く金管の咆哮に若きサヴァリッシュの才能を思う。

ところで、「ローエングリン」初演の経緯が実に興味深い。後に義父となるフランツ・リスト宛ての嘆願書簡ではワーグナーのこの作品への痛切な想いが語られる。

たった今まで私は「ローエングリン」の総譜を読んでいた。普通は自分の作品をこのようには読まないのだが。この作品が上演されるのを見たいという恐ろしいほどの欲求が心のなかで燃えている。ここで君にお願いしたいことがある。私の「ローエングリン」を上演してくれたまえ。
1850年4月21日付、リストへの手紙
「名作オペラブックス31ローエングリン」(音楽之友社)P173

対するリストも本気。

「ローエングリン」が上演される8月28日は特別な日(ゲーテの誕生日)で、それは必ずやこの作品にとって有利に作用するはずだ。正直に告白すれば、私はこのような途方もない作品を劇場の通常シーズンのなかで上演することを拒絶していたかもしれないのだ。
1850年7月中旬、リストからワーグナーへの手紙
~同上書P177-178

ちなみに、1850年8月28日にワイマールで初演された「ローエングリン」は空前の大成功とまではいかなかったようだが、尽力したリストにとっては満足のゆくものだったよう。

君の「ローエングリン」は始めから終わりまで崇高な作品だ。少なからぬ箇所で私は心の底から涙を流したほどだ。このオペラ全体がひとつの、唯一の不可分の奇跡であるために、私はどの箇所がよいとか、どの部分の組み合わせがよいとか、あるいはどの部分の効果が優れているとかことさらに取り上げることができない。
1850年9月2日付、リストからワーグナーへの手紙
~同上書P188

「ローエングリン」は不滅なり。

 

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1 COMMENT

畑山千恵子

ヴァーグナーは中世キリスト教のありかたをどう見たか。これが問われますね。「タンホイザー」では本当の愛のあり方を求めていました。心だけの愛ではなく、肉体的な愛も含めた完全な愛の形を求めたような気がします。
ルネッサンスでギリシア・ローマ文化・哲学が復活し、愛の女神ヴィーナスが復活しました。中世キリスト教社会がいかに人間を抑圧したか。ヴァーグナーはそれを問わんとしました。しかし、ヴァーグナーの場合、エゴイズムもあるため、この点は注意すべきだと思います。

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