ベートーヴェンの最後の弦楽四重奏曲を聴いている。
ここのところの時空を超えた(笑)音楽三昧からまたもや空想が拡がっている。
1827年、病床のベートーヴェンが手元に携えたのは全40巻に及ぶヘンデル全集。特に、オラトリオ「サウル」のスコアを見ながら、自身もそれを超えるオラトリオを作曲しようと夢想していたということだが、残念ながらそれは叶わなかった。この40巻の全集には当然最後のオラトリオである「イェフタ」も含まれていたはず。
ちなみに、弦楽四重奏曲第16番の作曲は前年の7月~10月なので、おそらくその頃にはベートーヴェンもヘンデルを相当研究していたのではなかったか。
「イェフタ」の主題は「人間は神の定めに抗うことはできない」というもので、幕開きのイェフタの兄弟であるゼブルの一言が”It must be so.”(そうあらねばならぬ)であることを知った時、震えた。ベートーヴェンが最後の四重奏曲の終楽章に認めた謎の言葉。グラーヴェの部分に”Muss es sein?”(そうであらねばならないか?)、続くアレグロの部分に”Es muss sein.”(そうあれねばならぬ)と。これは一体どういう意味なのか、これまで様々な説が飛び交ってきた。しかし、決定的なものはない。果たして「イェフタ」のこの主題との結びつきを誰かが指摘しているのかどうなのか、それは不勉強で知らないけれど、直感的に「イェフタ」と第16番四重奏曲は「つながっている(表裏一体)」と想像したのである。
しかも、16番のフィナーレは、グラーヴェ―アレグロという、バロック期のフランス風序曲の体裁を真似ているところからもそうだと確信(笑)(とはいえ、学術的根拠は一切ないので悪しからず・・・)。
確かに人は生を自ら選んで生まれてきている。そして輪廻転生を何度も繰り返し成長する。ただし、前世の記憶を失う現世において、僕たちにはやっぱり「定めには抗えない」と映るのである。
さらに、ここで死に際にベートーヴェンが呟いた言葉を思い出してみるがよい。
“Plaudite amici commedia finite est.”(喝采せよ、友よ、喜劇は終わった)
この世がすべて幻想で、すべてはとるに足らないものなんだという非常に深い言葉であるが、実にこれから数十年後にイタリアの地でこれまたこの言葉の表裏である傑作が生まれる。ジェゼッペ・ヴェルディの歌劇「ファルスタッフ」。80歳に近いヴェルディが、大団円で歌わせた言葉。見事である。
Tutto nel mondo è burla. L’uom è nato brlone, nel suo cervello
Ciurla sempre la sua ragione.
(世の中はすべて冗談。人はふざけるために生まれた。誠実もあやふや、理性だってあやふや)
この歌劇、シェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」が原作であるというのがミソ。つまり、エリザベス朝時代の現代劇だということだ。この戯曲は1597年以前に書かれていただろうと推測されているゆえ、バードやダウランドが活躍していた時期(2人とも宗教的事情で英国を離れていたけれど)と重なる(またしてもつながった・・・笑)。
ここで先日観た「クラウド・アトラス」のことを思った。人は何度も生まれ変わりながら、結局「神には抗えないものだ」とこの映画も言いたいのでは?しかし、この前も書いたように、僕の考えでは一元的思考に行き着けばこの輪廻の無限の糸は断ち切ることができる。それこそがスピリチュアルで言う「悟り」だと思うのである。もちろん僕はその域には程遠い。
ということで、「そうあらねばならぬ」と言い切れたベートーヴェンはやっぱり悟っていたのだと思えてならない。彼はヘンデルの生まれ変わりかもしれないと考えるのは僕だけだろうか・・・。
ベートーヴェン:
・弦楽四重奏曲第12番変ホ長調作品127
・弦楽四重奏曲第16番ヘ長調作品135
アルバン・ベルク四重奏団(1981.12録音)
アルバン・ベルク・クヮルテットの旧盤が最高だと僕は思う。崇高なこの緩徐楽章においてこれほどまでに安寧を感じさせる演奏は少ない。