R.シュトラウス自作自演集Ⅰ

何ヶ月か前、イタイ・タルガムの「偉大な指揮者に学ぶリーダーシップ」というビデオを観てとても面白いと思った。リーダーシップ論そのものももちろんだが、何よりそれぞれの指揮者の特長をよく捉えた上で解説がなされており、なるほどと首肯することばかり。
例えば、リヒャルト・シュトラウス。彼の場合、作曲家としての方がおそらく有名だろうが、ナチス・ドイツの帝国音楽院総裁という立場にあったこともあり、劇場監督として自ら棒を振り、自作だけでなく古今の様々な楽曲を演奏した。実際に残された録音もそれなりにあり、それらが意外に現代風の解釈で、決して浪漫的に過ぎず、淡白な中にとても深みのある音楽が奏でられ、僕は好き。音質も当時としては極上で、音楽を聴く喜びに満ちるものなので、余計に時折取り出したくなるのだ。

イタイ・タルガムによるとシュトラウスの指揮は、「無干渉型」で、オーケストラの団員自らに考えさせ、自発的に演奏させるというものらしい。なるほど、そのことは特に自作を聴いてみることで理解できよう。本来ならば思い入れのある自作である。マーラーならばありえない話。彼の場合、細部に至るまで指示を書き込み、オーケストラを完璧に従わせる「独裁型」だったが、シュトラウスはそうではないと。確かに即物的な表面上、あるいはその指揮姿から想像するとそんなようにも思える。

しかし、一方で「ツァラトゥストラはかく語りき」を聴いてみて、有名なファンファーレの最初のトランペットに続く和音は、楽譜上では16分音符で「パッパーン」と書かれているのに、本人は32分音符で「パパーン」と演奏していることを考えると(カラヤンやベームも同じくこの部分を32分音符で振っているが、あれはシュトラウスの自作自演を聴いた上での解釈だそう)、おそらくテンポやバランスについてはリハーサルで厳しい指示を出しつつも最終的な演奏(本番)については団員に相当任せていたということだと想像する。

そう、「無干渉」といってもリーダーである以上当然管理はするわけで・・・。厳しい統制があっての「無干渉」をモットーとしていたのだろうと思う。その方が、団員個々人が責任をもつと同時に、自らの意志とやる気で動くから。
と考えると、意外に冒頭の「パパーン」もシュトラウスの意図ではなく(本人はあくまでも「パッパーン」)、コンサートマスターあたりが仕切ってついやってみたところ、作曲家本人が「そっち方がいいじゃない!」なんて思った結果かもしれない。いずれにせよ、指揮者のリーダーシップという問題は興味が尽きない。

久しぶりにシュトラウスの自作自演盤。魂のこもる劇的な演奏。音の一粒一粒から火花が散りそうな勢い。

R.シュトラウス:自作自演集Ⅰ
・シンフォニア・ドメスティカ作品53(家庭交響曲)
・交響詩「ティル・オイレン・シュピーゲルの愉快ないたずら」作品28
・交響詩「ドン・ファン」作品20
リヒャルト・シュトラウス指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1943&1944録音)

第二次大戦中の録音。「シンフォニア・ドメスティカ」も「ティル」もものすごく熱い。「ドン・ファン」など火傷しそうなくらい(それは音の作りそのものというよりどちらかというと内燃するパッションがそうだということ)・・・(笑)。
もはやドイツが劣勢になりつつあった時期であることが影響しているのか、自国を鼓舞するような覇気に満ちるようにも聴こえるし、諦めの境地を音に託し、外面の激しさとは裏腹に、「うら寂しさ」を湛えた演奏であるようにも聴こえる。そうなると、やっぱり指揮者の意志が反映されていないはずはない(そもそもシュトラウス自身、作曲家がオーケストラの練習場の秘密を覗くことで、奏者たちがいかにして新たな運指法や奏法などを発見しているかを直接知ることができ、そのことを通じて作曲上の新たなアイデアを発想可能になるという持論があったそうだから、余計にそう思う)。

なるほど、シュトラウスは「無干渉型」という名の独裁者だったということか・・・。

 

 


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