世渡りが上手いか下手か、人間の価値はそんなことで測れるものではないけれど、「世間を味方にできるか否か」は生きていく上でとても大きな問題だ。音楽家の場合ももちろん。
例えば、ヘンデルやハイドンというのは先見の明があり、「世渡りが上手かった」人たち。一方、モーツァルトはどちらかというと下手。どちらの芸術が上かなどという野暮な質問はしまい。どちらも現代にまで受け継がれる「天才」。
ヘンデルもハイドンも共通するのは仕事のためロンドンに渡ったこと。当時、世界の覇権をものにしていた大英帝国に縁があり、王侯貴族と密接に結び付きながら自身の芸術を世に広め、同時に蓄財にも抜け目なかった。その意味ではバランスのとれた人間(社会人?)だったということだ。
では、モーツァルトはどうか?ウィーン時代の全盛期である1785年前後の出来事を振り返ってみよう。
1784年12月14日、フリーメイスン「慈善」ロッジに入会。
1785年1月7日、第2位階の「職人」に昇進。
同年1月14日、弦楽四重奏曲第19番ハ長調K.465「不協和音」完成。
同年1月15日、自邸にハイドンを招き、新作の弦楽四重奏曲3曲を披露。
同年2月10日、ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466完成。
同年2月11日、父レオポルトがウィーン訪問(4月25日まで滞在)。ハイドンがフリーメイスン「真の融和」ロッジに入会(ハイドンは同年暮れに脱会)。
同年2月12日、再び自邸にハイドンを招き、残りの四重奏曲3曲を披露(レオポルトも同席。ちなみにレオポルトは4月4日にフリーメイスン入会)。
この時、ハイドンがレオポルトに語った言葉。
私は誠実な人間として神に誓って申し上げますが、あなたのご子息は私が個人的に知っている、 あるいは名前だけ知っている作曲家の中で、最も偉大な人です。 ご子息は趣味が良く、その上、作曲に関する知識を誰よりも豊富にお持ちです。
お墨付き、である。それにしてもこの頃のモーツァルトの仕事ぶりには目を見張るものがある。それは、ひょっとするとフリーメイスンの影響もあるのだろう。そうなると、この頃に創作された作品はすべてこの団体と連関があるのか?あまりに不安定な序奏に当時の人々が度肝を抜かれたであろうK.465。それとベートーヴェンも愛好したデモーニッシュな短調作品であるK.466。
僕は思う。ここにあるのは「デミアン」でいうところの「アプラクサス」なのではなかろうかと。後の「魔笛」の台本を参照してみてもわかるように、フリーメイスンにはやっぱり「二元論」を超えた思想が根底に流れる。この団体の指す「友愛」というのはそのことをいうのではないのか・・・。
フリーメイスンへの関わり方ひとつとってみてもいかに両者が異なるか。モーツァルトは「現実」などどうでもよかった。ハイドンは「現実」が重要だった。そういうことだ。
モーツァルトが亡くなった後、ハイドンはイギリスに渡り、自身の芸術の深度を高めるとともに様々を吸収した。ヘンデルのオラトリオに感銘を受け、「天地創造」や「四季」が生れた。そして、「英国国歌」の影響も受けた。当時、ナポレオンの侵略に脅かされていた国家を奮い立たせようと「皇帝讃歌」を書き上げた(現在はドイツ国家)。その旋律が第2楽章に引用された「皇帝」四重奏曲。アマデウス・クヮルテットの柔らかく、いぶし銀の如くの音色が哀しげに響く。
20年以上前、ヴィオラのペーター・シドロフ氏が亡くなった後のアマデウス・アンサンブルの実演を何度か聴いた。やっぱり哀しかった。
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[…] なるほど「皇帝」四重奏曲についてもそうかも。有名な第2楽章の主題などは何度聴いても心を打たれるのだけれど、全曲を繰り返しとなると辛い(少なくとも現在の僕には)。ならば原 […]