グレン・グールドが亡くなったとき、村上陽一郎さんは追悼エッセイの中で再録の「ゴルトベルク変奏曲」について次のように書かれた。
新盤〈ゴルトベルク〉の最後のアリアは、しみじみとした味わいの心を打つ演奏に仕上がっていた。それは期せずして自らへの挽歌になっているように思われてならない。
~「レコード芸術」1982年12月号P187
残された好事家のこういう言葉はあくまで後づけのものであり、現実にはこの稀代のピアニストはまだまだ生きるつもりで、その後も再録含めた様々な録音計画を秘かに練っていたことだろうことを考えると少々虚しくなる。
「ゴルトベルク変奏曲」に続き、グールドはブラームスの作品集を録れ、そして珍しいリヒャルト・シュトラウスのソナタを録音した。もしも唐突な死が訪れなければ、グレン・グールドは次にどんな作品を選んだのか、とても興味深い(それは神のみぞ知る)。
おそらく、そこには間違いなくブラームスの「ヘンデル変奏曲」があっただろうし、あるいはベートーヴェンの傑作「ディアベリ変奏曲」もあったことだろう。
たとえば「ゴルトベルク」の再録は、音楽史で重要な変奏曲の名作をレコーディングするための前哨、指慣らし的なものであったのでは、と考えられないだろうか。僕はグールドの弾く「ディアベリ」がどうしても聴きたかった。あの晦渋でありながら実に奥深い哲学的(宗教的?)作品を彼がどのように料理したのかを知りたかった。
そんなことを、ベートーヴェンの「変奏曲集」を聴きながら空想した。
ベートーヴェン:変奏曲集
・自作の主題による32の変奏曲ハ短調WoO80(1966.11.8録音)
・自作の主題による6つの変奏曲ヘ長調作品34(1967.5.15&16録音)
・15の変奏曲とフーガ変ホ長調作品35(エロイカ変奏曲)(1970.2.20, 21&7.16録音)
グレン・グールド(ピアノ)
例によって左手の強調される(というか両手が同等に重視される)演奏は、テンポ設定といい、バランスといい、時に独特の節回しを見せる。また、相変わらずの鼻歌がグールドの表現を一層深みのあるものに変える。
「エロイカ変奏曲」における祈りの第8変奏に躍動する第9演奏、そして軽快な第10変奏に垣間見る律動の妙味。
最晩年、ティム・ペイジとの対話でグレン・グールドは次のように語る。
僕が本当に興味のある音楽は、いくつかの主題が同時進行で対位法的に展開していって激昂するような音楽だけなんだ。そのクライマックスでね。そういう音楽というのは主題の本質がそのまま把握できるものだし、それゆえ、実に複雑で対位法的なテクスチュアには慎重に落ちついた態度がどうしても必要になる。それでこそ完璧なものになりうる。
(宮澤淳一訳)
幾筋もの脈のあるパラレル・ワールドの体現こそがグレン・グールドの人生の主題だったのだろう。その意味で、彼の50年目の死というのは彼の望む絶頂でのそれであったのかもしれない。最終変奏のフーガが不思議と悲しく響く。
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