デュトワ指揮モントリオール響の歌劇「ペレアスとメリザンド」を聴いて思ふ

debussy_pelleas_melisande_dutoit_montreal097音楽に、精神を発揚させること以外に目的があるとするなら、それは心の静けさを獲得するための媒介となることと、手段となることであろう。
クロード・ドビュッシーが、若き日に、当時のヨーロッパの芸術家同様ご多聞にもれずワーグナーに心酔しながら、後年、すなわち2度のバイロイト詣で以降、反ワーグナー派に転じたのには、彼の内側で精神の発揚以上に心の安寧を求めた結果だという理由あってのことなのだろうと彼自身の言葉から思った。
村山則子さんの「メーテルランクとドビュッシー」(作品社)をひもとく。

まず、この作品がなんらかの価値を持っているとすれば、それは演劇的な動きと音楽的な動きとの結合にあるのです。そうした特質が演奏会形式の上演で消えてしまうことはいたって明らかで疑問の余地はないし、また作品に星のようにちりばめられている沈黙の格別の雄弁さが理解されなくても、誰も憎むことはできないのです。・・・そのうえ、用いられている手段の簡潔さは、舞台上演の場合にしかその本当の意味作用を獲得出来ない。・・・私の意見では、「ペレアスとメリザンド」はあるがままに上演されるべきであって、そうするしかないのです。
P160

先日聴いた、デュトワ&N響の公演を真っ向から否定するような作曲者自身の言葉であるが、「ペレアス」は確かに「演劇的な動きと音楽的な動きの融合」を意図した作品であり、しかも「静寂」を聴衆に提示する上で歌劇としての上演以外にない作品なのだということがよく理解できる。

また私は、音楽劇において奇妙にも忘れられていると思われる、美の法則に従おうと努めました。この戯曲の登場人物は、時代遅れの伝統によって作られた勝手気ままな言語ではなく、自然な人間として歌おうと心がけています。
P156

ドビュッシーがメーテルランクの戯曲に惹かれたのは、それが「自然」という「美の法則」に則っていたことによるということだ。ここには明らかにワーグナーへの反目の意が読みとれる。実際、ワーグナー作品についてのドビュッシーの批評は次の如く。

ヴァーグナーは一度も音楽に奉仕したことはなかった。そしてドイツに奉仕したこともかつてなかった。・・・ヴァーグナーが気違いじみた自尊心の衝動で、「さあ今や、あなた方は一つの芸術を持ったのだ」と叫んだ時に、全くこう言っても同じだったのだ。「さあ、私はあなた方に虚無を残す。そこからあなた方が抜け出す番なのだ」と。
P150

フランス人はその明晰さと優美さという自分たち独自の特質をまったく進んで忘れてしまって、ゲルマン的な長ったらしさと重苦しさの影響を受けっ放しにしてきたのです。
P150

言いたい放題、ほとんど憎悪にも近い辛辣さ。これら感情的な言は、いわばナショナリズムとイデオロギーから生じる幻想(すなわち思い込み)に過ぎない(ように僕には思える。普仏戦争以後のフランス人の対独憎悪の背景が潜在的にあるのかも)。なるほど、この激烈な、少々過ぎた批判の裏には(ニーチェにも通じる)「劣等感」が感じられる。例えば、ベルギー人であったメーテルランクに対しても、そしてベルギー国そのものへもフランス人としての偏見や優越感が明らかにドビュッシーの内側にあった。

彼(ドビュッシー)は、1907年オペラ「ペレアスとメリザンド」のブリュッセル、モネ劇場初演のリハーサルに立ち会った時も、1月3日付け出版社のデュラン宛ての書簡でベルギーにたいする嫌悪感を表明し、「モネ劇場オーケストラは美的感覚と風味に欠け、歌手たちはおかしな連中の勢ぞろいだ」と、アルケル役の歌手を例にあげ、散々けなしている。
P163

興味深いのは、これだけワーグナーを否定しながら、その音楽にはワーグナーの影響が明らかである点。例えば、第1幕第1場から第2場にかけての「間奏曲」には「パルジファル」が木霊するし、彼がワーグナーのライトモチーフの使用法をどんなに否定しようと、ドビュッシー自身も「ペレアス」においてライトモチーフ的な旋律の使い方を(最小限であるにせよ)しているのだから。

ああ、助けてくれ。兜を被り、獣の皮を着たあの連中が、4晩目にいたっては、もう我慢ならないものになる。考えても下さい。そいつらがあの呪われた「ライトモチーフ」を必ず従えて登場する。その上、ライトモチーフを歌っている者もいるのだ。
P178

何という「劣等感」。
とはいえ、それはそれで良いではないか。対極の者への反骨心、対抗心から新たなものが生れるのが世の常ゆえ。ドビュッシーはワーグナーを糧にし、新境地に至った。

ドビュッシー:歌劇「ペレアスとメリザンド」
ディディエ・アンリ(ペレアス、テノール)
コレット・アリオット・ルガズ(メリザンド、ソプラノ)
ジル・カシュマイユ(ゴロー、バリトン)
フランソワ・ゴルフィエ(イニョルド、ソプラノ)
ピエール・トー(アルケル、バス)
フィリップ・アン(医師/羊飼い、バス)
クローディーヌ・カールソン(ジュヌヴィエーヴ、アルト)、他
シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団&合唱団(1990.5録音)

言葉と音楽の一体化を体現する最高のパフォーマンスのひとつ。願わくば、彼らの舞台を観たかった。

ペレアス 君は知らないのだね、ぼくがなぜ、遠いところへ行かねばならないか・・・(メリザンドを急に抱き寄せてくちづけする)。好きだ・・・
メリザンド (小声で)あたしも、好き・・・
メーテルランク作杉本秀太郎訳「対訳ペレアスとメリザンド」(岩波文庫)P159

第4幕第4場の、いよいよペレアスとメリザンドの愛の告白と抱擁と・・・。ここでのデュトワ&モントリオール響の音楽は、他を冠絶する官能と静けさの極致。

 

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1 COMMENT

畑山千恵子

ドビュッシーが完成させたオペラはこの1曲だけでした。多くのオペラが未完に終わったのは、ドビュッシーと台本作家とのトラブルが多かったからです。ドビュッシーはやたら、作曲家として自我を強く打ち出すことから、台本作者と喧嘩ばかりして、オペラは未完となりました。
しかし、自ら台本を書き、未完となった「アッシャー家の崩壊」はエドガー・アラン・ポーの原作からかなり逸脱したものとなったこともあり、完成できませんでした。「ペレアスとメリザンド」だけが完成したオペラとして上演されましたし、近代フランス・オペラの傑作に輝く名作となった訳です。

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