ホリガー他の協奏交響曲K.297bとオーボエ協奏曲を聴いて思ふ

mozart_k297_oboe人は音楽をやっぱり「頭」で聴く。
バッハやモーツァルトなど古の作品などは真作か偽作か、議論されることも多々。
作曲家の名前で音楽を聴いているわけではないだろうにどうしてもそこが気になるらしい。
良いものは良い、美しいものは美しい、本来ならそれだけで良いのにどうやらそれでは許されないみたい。

そういう意味では、ほとんど詳細を知らず音楽を無心に聴いていたあの頃が懐かしい。
「知ること」が足枷になるかのようについ創造者の名前を追ってしまう。今の世の中、それほどに肩書きが大事で、名前が売れていることが重要だということか。
「知らない」ということはとても幸せなことなのかもしれない。

モーツァルトがパリ=マンハイム時代に作曲しただろうと言われる協奏交響曲。いかにもモーツァルト的名作だと思うのだけれど、偽作の疑いもいまだ晴れていないそう。僕の耳にはどう聴いてもモーツァルトだとしか思えない瞬間が多発する(そもそも第1楽章冒頭の主題からして明らかにモーツァルト)。しかし、この際そんなことはどうでも良い。フルート、オーボエ、ホルン、バスーンという楽器を独奏楽器に据えたこの音楽は実に素晴らしいから。仮に作曲者がモーツァルトでなかったとしても、そんなことは問題にならない。

モーツァルト:
・フルート、オーボエ、ホルン、バスーンのための協奏交響曲変ホ長調K.297b (app.9)(ロバート・レヴィン再構成版)
・オーボエ協奏曲ハ長調K.314
・オーボエ協奏曲ヘ長調(K.313)(原曲:フルート協奏曲ト長調)
オーレル・ニコレ(フルート)
ヘルマン・バウマン(ホルン)
クラウス・トゥーネマン(バスーン)
ハインツ・ホリガー(オーボエ)
サー・ネヴィル・マリナー指揮アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ(1983.7.9-10録音)

1778年というと旅行中のパリで母親が亡くなった年だ。おそらくこの作品が書き上げられた春先も母親の調子は決して良くなかったはず。それでも彼の作品は相変わらず明朗だ。本人の意思や感情とは別のところで音楽が紡がれているのではないかと思わせるほど。
ちなみに、その要因は独奏者に名を連ねるメンバーの錚々たる顔ぶれの力量に依るところ大(もちろん作品の再構成者であるレヴィンについても忘れてはなるまい)。各々のソリストが互いに各々を立てながらしかもきちんと主張を通す様子。例えば、第2楽章冒頭の主題提示など、4つの独奏楽器が見事に絡み合って哀愁溢れる旋律を奏するのだが、その色彩感の豊かさに舌を巻く。22歳にしてモーツァルトはこんな音楽を書いていたんだ・・・。
その前年、1777年作のハ長調のオーボエ協奏曲はホリガーの独壇場。
第2楽章アダージョ・ノン・トロッポのオーボエのあまりに切ない響きに思わず感涙・・・。

数年前に亡くなられた合唱指揮者である関屋晋さんの「モーツァルトに始まりモーツァルトに終る」というエッセーを思い出した。

モーツァルトの作品を指揮していて、指揮している自分が必要でなくなる時がある。何もすることがなくなってしまうのだ。何一つ飾りたてたり、繕ったりしなくても、音楽は流れていってしまう。あの優美な旋律、軽快なリズムが、泉のように、微風のように自然に生まれ、溢れていくのだから、余計なことはまったくいらない。いらないだけでなく、かえって邪魔なのだ。自分で自分が邪魔に感じられてむなしくなる。本来、天才の作品というものは、そんなものかもしれないが、ああもしてみたい、これがふさわしいのではと悩み、努力してみたものの、最後にそれが無駄なことと知り、そこにあるものだけで美しいと知った時のむなしさ。またこの無駄な時間が大切に思われる不思議な魅力が、モーツァルトの作品にある。

「ただあるがままに」ということがいかに難しいことなのか。
エゴを排することがいかに大変なのかがよくわかる。
しかし、エゴを排するにも、一旦エゴを認知し闘わない限りそれを排することはできない。
人間って面白い。

 


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