ベームの「皇帝ティートの慈悲」を聴いて思ふ

mozart_la_clemenza_di_tito_bohm35年という短い生涯において常に劇的な生き様を見せたモーツァルトは、おそらく最晩年にいわば「悟り」の境地に達したのだろうと、その作品を聴いて想像する。特に陰陽を統合する「魔笛」などは、そのことを象徴する最右翼の最高傑作であると思うが、同時期に生み出された「皇帝ティートの慈悲」は、舞台にかけられることが少ないものの、僕たちが何を目的に生きるのかを問いかけてくれる重要なメッセージを含むオペラだとあらためて思う。

そのタイトルにあるように主題は「慈しみの心」である。すなわち「いかに人を許すか」、ここにこそ僕たちが生きる意味があるのだと死を前にしたモーツァルトは訴える。
友にも、そして未来の妻となるべき人に裏切られた時、人は一体どんな気持ちに駆られるのだろう?
哀しみと怒りと・・・、あらゆる感情が錯綜し、まったく整理がつかないまま爆発してしまうであろう。あるいは、自暴自棄になって自害に及ぶか。しかしながら、皇帝ティートは違った。自身の感情の内側で紆余曲折経ながら、最終的には慈しみの心は永遠だとし、すべての人を彼は許すのである。

モーツァルト:歌劇「皇帝ティートの慈悲」K.621
ペーター・シュライヤー(ローマ皇帝ティート、テノール)
ユリア・ヴァラディ(ヴィテッリア、ソプラノ)
エディット・マティス(セルヴィリア、ソプラノ)
テレサ・ベルガンサ(セスト、ソプラノ)
マルガ・シミル(アンニオ、カストラート・ソプラノ)
テオ・アダム(総督プブリオ、バス)
ライプツィヒ放送合唱団
カール・ベーム指揮シュターツカペレ・ドレスデン(1979.1録音)

静かに進みゆく第2幕の音楽の神々しさ。これほど透明感を保った音楽はある意味「魔笛」以上かも。第15番の人々の感謝を表現する合唱の美しさ。そして、第20番のティート帝の慈悲を示すアリアの愛に満ちた響き。

第24番以降のクライマックスの光り輝く解放とカタルシス!
神々と皇帝を賛美する合唱の後、ヴィテッリアが真の罪人は自分であることを告げる。
第25番におけるティート帝の慈悲の心の表現と第26番の六重唱と合唱による壮大なフィナーレ。「魔笛」に比してあまりに人気が薄いのが信じられないほどの音楽と物語。
少なくとも内容的に現代においてこそもっと聴かれるべきオペラなんだと僕は思う。
ちなみに、最晩年のベームの指揮は安定感抜群で、衰えた愚鈍な表現に決して陥らず、老境の極みとも言うべき指揮。音楽の透明感の第一はカール・ベームの音楽作りに依るものだろう。

そういえば、だいぶ昔の音楽評論家に三浦潤という方がいらして、「皇帝ティート」を指して、「いわゆる啓蒙専制君主万歳劇のためモーツァルトの筆は気分が乗っておらず、晩年の作なのに顧みられることの少ない作品だ」というように書かれていたが、どうも僕の耳にはそれほど駄作のようには聴こえない。この人は果たしてベームのこの録音を聴いているのだろうか?

 


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