モンセラート・フィゲーラスのカッチーニ「新しい音楽」を聴いて思ふ

caccini_figueras172イタリア、フィレンツェの生んだ万能人レオナルド・ダ・ヴィンチの生誕日に想う。
あの頃は、良くも悪くも人間が最も人間らしかった時代なのかも。
稀代の博学者は目に見えるもの見えないもの、世に存在するすべてに対して何を感じ、考えたのか?
今こそまた人間が自然と一体となるべく「らしさ」を取り戻し、才能を発揮する「時」なのか。それには感性を養わねば、あるいは枠を取り外さねば。

古の音楽は心身に優しい(と以前にも書いたように思う)。
イタリア古典歌曲、中でもジュリオ・カッチーニの、超自然体でありながら人間の心の機微をうまく表現する「新しい音楽」と題する歌曲集の素晴らしさ。これほど素朴な音楽はない。

思考を止め、ただひたすらカッチーニの音楽に、そして今は亡きモンセラート・フィゲーラスの歌に浸る。

カッチーニ:新しい音楽
・.愛の神よ、何を待つのか?~「新しい音楽と新しい書法」(1614)
・愛の神よ、我去りゆかん~「新しい音楽」(1601)     
・翼あれば~「新しい音楽と新しい書法」(1614)
・天にもかほどの光なく~「新しい音楽と新しい書法」(1614)
・気高き至福の光よ~「新しい音楽と新しい書法」(1614)
・我は見ん、我が太陽を~「新しい音楽」(1601)
・ひねもす涙して~「新しい音楽と新しい書法」(1614)
・いとど優しき溜息の~「新しい音楽」(1601)
・東の門より~「新しい音楽と新しい書法」(1614)
・麗しのアマリッリ(アマリリ美わし)     
・憐れみの心動かし~「新しい音楽」(1601)
・麗しき真紅のばらよ~「新しい音楽」(1601)     
・この苦き涙よ~「新しい音楽」(1601)
・ああ、戻り来たれ~「新しい音楽と新しい書法」(1614)
・輝く麗しの瞳もて~「新しい音楽と新しい書法」(1614)
モンセラート・フィゲーラス(ソプラノ)
ジョルディ・サヴァール(ヴィオラ・ダ・ガンバ)
ホプキンソン・スミス(バロック・ギター、リュート)
ロバート・クランシー(バロック・ギター、キタローネ)
クセニア・シンドラー(ハープ)(1983録音)

バロック期のいろいろな弦楽器を伴奏にしてのフィゲーラスの歌の清澄な美しさ。
彼女が癌のため亡くなって何年かになるが、まるで自身を追悼するかのような愛惜の念に横溢するのはどういうことか?
そもそも人々の恋や愛を歌う世俗音楽は得てして哀しい。そして、神を崇める教会音楽以上にある意味崇高だ。

 

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