グレン・グールドのモーツァルトを聴いて思ふ

mozart_gould合唱指揮者の関屋晋さんは、モーツァルトを演奏するにあたり「余計なことはまったくいらない。いらないだけでなく、かえって邪魔なのだ」と書かれた。なるほど確かにその通りだろうと納得するのだけれど、そういう意見に反発するかのようにやりたい放題、天邪鬼的な解釈を施したのがグレン・グールドその人。一聴、エゴイスティックなモーツァルト。学究的な見地から言うとほとんど「お笑い」のようなものらしいが、こういう演奏がそもそもリリースされ、しかも廃盤にならずに何十年も聴き継がれているわけだから、そのことから考えてみても「あり」だということ。僕など開き直って「何がいけないのか?」と反対論者に口角泡にして問いかけたいくらい。

冷静になると、確かに奇妙奇天烈でモーツァルトの型からは逸脱している。
しかしそれがだめなのかどうなのか僕たちに判断する術はない。当時の慣習やスタイルや、研究し尽くされた後の結論とはいえ、当時のことを「知っている人」は今にはいないわけで、もしもモーツァルトが現代に生き返ってグールドの演奏を聴いてどう思うかなど誰にもわからない。いや、ジャズなどの即興演奏が音楽の本来のありようだとするならば、むしろモーツァルトは大手を振ってこういう演奏を評価し、太鼓判すら押したのではないのかと僕などは考えてしまう。

なぜならモーツァルトらしいかどうかは別にして、音楽としてとても面白いから(「らしさ」っていったい何?そんなものは他人が決定した基準に過ぎない)。

1977年に打ち上げられたボイジャー1号が太陽系を脱出したらしい。現在の位置は光速でも太陽から17時間ほどかかる距離だそうだ。何とも気の遠くなる話だが、真にメルヘンチック。そういえば、数年前、宇宙物理学者の佐治晴夫先生にお会いする機会があったが、ボイジャーにグールドの弾くバッハの「平均律クラヴィーア曲集第1巻」第1番の前奏曲のレコードを積載したのだと聞いていたことを思い出した。果たしてどうしてバッハだったのか?あるいはグールドだったのか?
地球外生命体と対話するには言語ではなく音楽が良かったことと、どうやらバッハの音楽にある「数学的構造」が相応しかったということ。しかも、バッハのポリフォニーをいかにもポリフォニックに奏するグレン・グールドの演奏が最右翼だったということだろう。

確かにグールドはモーツァルトに関しても極端に左手を強調し、普通ではあり得ない箇所でスタッカートしたり、音楽のポリフォニックな側面を強調する。

モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集
グレン・グールド(ピアノ)(1967-74録音)

リリー・クラウスをして「あのあり余る才能でもう少し普通に弾けばいいのに」と言わしめたグールドのモーツァルト。普段滅多に聴くことのないセットだが、時折妙に耳にしたくなる「麻薬のような」モーツァルト。グレン・グールドだから許される解釈だけれど、いつ聴いても発見のある素晴らしい全集。
追悼盤のアナログ・セットの解説書には今は亡き柴田南雄氏のエッセーが付されているが、真に興味深い。

しかし、もちろんわたくしは、このレコードを、この稀有なモーツァルト演奏を、たんに資料としてきくのでなく、今日的な音楽感覚を心ゆくまで楽しむためにこそ、これまでもきいて来たし、これからもきくであろう。

果たしてこれが柴田氏の本音なのかどうなのかそれはわからないけれど、少なくとも作曲家という立場、つまり革新的創造的であらねばならない立場であった人の言葉から考えるに、お世辞でも何でもなく本心からそう思われたのだろうと推測する。
なぜなら、やっぱり独創的で面白い演奏だから。おそらくグールドの当時から没個性的なクラシック音楽界に一石を投じるという意味でも意義あるセットだと僕は思う。

余計なことはまったくいらないのだけれど、余計なこともあっても良いじゃないか。
今はそんな気持ち・・・。

 


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