己が魂だとするなら、人間はそもそも肉体という殻に閉じ込められているということである。すなわち、人は必ず一定の「枠」の中で考えざるを得ないという弱点を持つ。しかし、その「枠」を容易に超えられる人がいる。それが天才といわれる人々。特に、芸術家の中で傑出した人たちは皆そうだ。そういう天才たちの場合、肉体の内に心や魂があるのでなく、魂や心の内側に肉体がある、そんな瞬間を体現できるようなものだろう。すなわちものを生み出すその瞬間はすべてと一体化しているような感覚。でないと、享受する人々を感動させるものにはなり得ない。
芸術作品というものはそもそも創造者の「枠」を超えてでき上がったものだと僕は考える。中でも、目に見えない芸術である音楽は、その時間的空間的広がりを考えたとき最上の芸術であり、そしてそれを創造する者たちは間違いなく選ばれし人たちだ。彼らはその作品を通じて偉大なるもののメッセージを僕たちに伝えようとする。ゆえに、どんな作品のどんな部分においてもあらゆる感覚(センス)が刻印されており、そしてどんなに難解な作品であっても最終的には「和」というものを提示する。そう、音楽作品とはいわば啓示なのである。
ドミトリー・ショスタコーヴィチを聴く。この人も間違いなく「選ばれし人」。
生きることが闘いであり、修行であることを地でいった人。まさにソビエト連邦という国家で、そしてスターリニズムという時代の最中で環境と、自分自身と闘いながら、それでも稀代の傑作を生み続けたスーパースター。なぜ彼はあの時代に彼の地に生を得なければならなかったのか。おそらくそれは「ショスタコーヴィチの音楽を書くため」であったからだろう。
ショスタコーヴィチ:
交響曲第10番ホ短調作品93
クルト・ザンデルリンク指揮ベルリン交響楽団(1977.2.9-11&14録音)
奇しくもヨシフ・スターリンが急逝した直後から書き始められ、極めて短期間に完成された第10交響曲には、暗鬱たる雰囲気の衣を借りて、実にポジティブでユーモラスな喜びが表現されているのだと感じるのは僕だけか?巨大な第1楽章モデラートには間違いなく作曲者の「反骨」の意思と「解放」が充溢する。そして、「証言」の中で、第2楽章アレグロは「スターリンの肖像」だとショスタコーヴィチ自身が言ったとか・・・。いや、そんなはずはなかろう。彼の頭には亡き為政者のことなどはなかった。それよりも彼がいなくなったことへの歓喜、それしか僕には映らない。第3楽章アレグレットについても、終楽章についても同様。いわゆる「雪解け」を期待し、意気揚々と前進する人々の風景。
なるほど、こういうものが生み出せること自体が奇跡。人間業とは思えぬ。
肉体を超える、思念を超える、その時に芸術が生まれるということ・・・。
それにしてもザンデルリンクの指揮は見事。重心が安定し、合奏の巧さが秀で、しかも各楽器の独奏もいぶし銀の如く。1970年代当時の東ドイツのオーケストラの力量というのは大変なものだったんだ。
再現者というのは・・・、つまりインスピレーションの翻訳者だ。こちらも「選ばれし人々」。
ザンデルリンクのショスタコーヴィチを聴いて考えたこと。ショスタコーヴィチというのはある意味哲学だ。
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