グレン・グールドのバッハというのはどうしてこうも鮮烈なのだろう。
たまにしか聴かないのに、そしてわかっていることなのに、そのたびに新鮮な感動があり、いつも惹き込まれる。要は普遍性があるんだ。しかし、一方でアンチ・グールドという人もいる。それはそうだ。人間は感性の生き物だから。それに世の中は相対でできているゆえ、100%賛同ということ自体そもそもあり得ない。むしろ賛否両論あるからこそバランスがとれ、興味深いのであって、そうなるとグールドのバッハに嫌悪感を抱く人の話にもしっかりと耳を傾けたいという気になる。必ずや何か新しい発見があるだろうから。
バッハを聴く醍醐味は対位法の妙味に尽きる(もちろんそれだけではないから他の考え、意見もあって然り)と思うが、グールドの場合すべての音をそれこそ同等に扱いながら、楽想に七変化をもたらし、しかも同じ旋律の繰り返しにおいてもまったく同じ奏法で表現しないところに面白さがある。これこそ他の誰も真似のできない唯一無二のもの。個性といえば個性。鼻につくと言えば鼻につく。しかしこれは思考とセンスと、そしてテクニックと、つまり心技体の三位一体がないと絶対に不可能な表現だ。とにかく先入観を捨て、虚心に耳を傾けること。それが、グールドを知る一番の手立てだろう。
バッハの時代の組曲というのは各国の舞踊音楽を並べたものが常。バッハの音楽でダンスをするのは正直難しいのだが、グールドの弾くバッハの組曲をいわゆるダンス・ミュージックの集合体だと考えた場合、その個性がより納得のゆくものとして捉えることはできないだろうか。
J.S.バッハ:フランス組曲
・第1番ニ短調BWV812(1972.11.16録音)
・第2番ハ短調BWV813(1972.11.5録音)
・第3番ロ短調BWV814(1973.2.17録音)
・第4番変ホ長調BWV815(1973.2.17録音)
・第5番ト長調BWV816(1971.2.27&5.23録音)
・第6番ホ長調BWV817(1971.3.13&5.23録音)
・フランス風序曲(パルティータ)BWV831(1971.1.10, 11, 24, 31&2.27, 1973.11.5録音)
グレン・グールド(ピアノ)
正確な、機械仕掛けのピアノによる演奏のような、表面上は無機質な質感に支配されるバッハ。しかし、内燃するその魂は極めて熱い。一切の感情と虚飾を払ったような素振りを見せながら、あるいは理性ですべてを捉えようと画策しながら、実にグレン・グールド本人の人間的弱さすら垣間見られる、それゆえに見事なバッハ。長調の後半3曲はいかにも愉悦に満ちた響きをもつが、その内側には何とも言えぬ悲哀が漂う。涙を伴う美しさとでもいうのか。例えば、第5番のサラバンド!
また、前半3つの短調作品にはとても深い慈愛が・・・。これらの音楽を通じてバッハが表現したかったものは何か?人間のもつ日常的なあらゆる感情と、それを表現せよということだろうか。そして、そのために「素に戻れ」と。
なるほどグールドのバッハは「素に戻った」結果なんだ。だからこそ鮮烈であり、いつどんな時も感動的なんだ。
グールドは一部の作品を除きほとんどを再録しなかったけれど、もしももう少し長生きし、バッハの作品群を再録音してくれていたらどんなものになっていたのだろう?かの「ゴルトベルク変奏曲」同様、まったく違った解釈の演奏がもし眼前に現れたとするならきっと僕たちは卒倒していたことだろう。そのことを想像するだけで真に楽しい。
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今、グールドの伝記研究を進めるため、カナダ国立図書館へ資料を発注しています。ただ、法律問題が大変です。関係先にもメールで知らせなければなりません。外国の場合、こうした問題があって大変です。
>畑山千恵子様
なかなか大変でしょうが、がんばってください。
上梓されたらぜひ読ませていただきたく思っております。