アルゲリッチ独奏アバド指揮ベルリン・フィルのチャイコフスキー(1994.12Live)を聴いて思ふ

tchaikovsky_argerich_abbado_bpo281独奏パートの助言を求めると、思ってもみない言葉がかえってきた。絶対弾けない。パッサージは直しようもないほど陳腐でぎこちない。ありきたりの低俗な曲で、盗作部分を指摘。せいぜい2,3ページ。あとはすてるかほとんど書き直すように。一定の期日までに書きかえるなら演奏すると。
伊藤恵子著「作曲家◎他人と作品シリーズ チャイコフスキー」(音楽之友社)P69

現代ではこれほどメジャーで演奏効果も高く、しかも聴衆を容易に感動に導く作品が、作曲当時は演奏不可能として数多の専門家から却下された事実が何とも興味深い。
最終的にはハンス・フォン・ビューローが難曲だと認めつつも高く評価し、彼の手によりボストンにて初演、その時には大成功を収めたというのだから、音楽作品というのは世に出るべくして出るもので、そこには鍵となる誰かの存在が必ずあるのである。
古今東西、陽の目を見ることなく埋もれてしまった作品は多いことだろう。

本当に久しぶりにマルタ・アルゲリッチを聴いた。
実演も音盤も、どういうわけか遠ざかって久しい。
公演に行けば必ず感動は保証されているのだけれど、若い頃のあの丁々発止の、挑発的な、前のめりの演奏、そして予想のまったく不可能な、それでいて見事にツボにはまる解釈に翳りが差したとは言わないまでも、いつの間にかこの人にそれほどの魅力をあまり感じなくなっている僕がいる。
いや、実演の場合に限って言うと、正直それより容姿が大きいのかも(失礼)。
演奏者が年輪を刻めば刻むほど、その音楽の力は一層強まり、老練の極みに達していくものなのだが、ことアルゲリッチに関してはかつての惚れ惚れする舞台姿(黒髪の)が忘れられない・・・。あくまで僕の個人的見解であるけれど。

アルゲリッチがアバド指揮ベルリン・フィルをバックに録音したチャイコフスキーのピアノ協奏曲。正直演奏は、1980年のキリル・コンドラシンカジミシュ・コルドとのものの方が白熱している。終楽章コーダの火花散る激烈アッチェレランドもあちらの方が上。
しかしながら、この演奏の素晴らしいところは、ライブ録音でありながら、恐るべき安定度を保ち、しかも相応の即興的チャレンジも垣間見せつついわゆるアルゲリッチ節を思う存分堪能できるところ。

・チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番変ロ短調作品23
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1994.12Live)

第1楽章冒頭から猛烈に指が回るアルゲリッチの独壇場。
一方、アバド&ベルリン・フィルのすごいところは、非常に冷静に客観的に独奏者をフォローし、音楽的にも十分包み込むところだろうか。
例えば、第2楽章アンダンテ・センプリーチェ主部でのオーケストラとピアノのやり取りの絶妙な呼吸というか間というか、明らかに指揮者の棒による支配の上にピアニストが寄り添いつつ奏者全員が最高に歌い切っている場面。
あるいは、第3楽章アレグロ・コン・フォーコの、速過ぎず遅過ぎず、絶妙なテンポで進む音楽の妙。コーダも劇的圧倒的。

やっぱりたまにはアルゲリッチを真面目に聴いてみなければ・・・。

 

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2 COMMENTS

畑山千恵子

これは狂喜して聴きましたね。ショパン「アルゲリッチ音楽祭」でかまやつひろしさんが聴きに来ていたそうです。それもあってかですね。かまやつさんが来て、井上大輔さんが来たらショパンは大騒ぎするのでは、と思いましたね。しかし、井上さんも15年前、自殺という形で亡くなりましたね。

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