自信と確信に満ちたインテンポによる揺るぎのない造形。朝比奈隆が最も充実していた頃の記録。かつて上野での公演がDVD化されたもののCDとしては初リリースとなるブルックナーに襟を正される思い。何と精気に溢れ、地に足のついた「美しい」音楽であることか。
1980年代後半以降、朝比奈隆の東京公演には大抵足を運んだ。しかし、そのうちのいくつかはどうしてもチケットが入手できない、あるいは仕事の関係で諦めざるを得ないという事情で触れることのできなかったものがある。そのひとつがこの音盤に収められた新日本フィルとの公演(当時は電話予約が一般的で、発売開始直後から電話がつながらず何時間か後につながった時には既に完売。地団太踏んだことをはっきり思い出す)。今宵、その「音」を耳にしてあらためて思った。その場に居合わせることのできなかった無念。あまりに素晴らし過ぎるブルックナーに言葉が出ない。
第2楽章アダージョの深遠な「精神美」に気づかされた。低弦のあまりの美しさに心洗われた。金管の咆哮も決して無理をさせず、実に有機的で尊く、フレーズのひとつひとつが意味深い。何よりコーダの静けさに「神々への祈り」を想った。
進行するにつれより音楽的になる演奏の白眉は実に第3楽章スケルツォにある。理想的なテンポで、これほどに「充実感」の得られたブルックナーは大袈裟だけれど初めてかも。主部の前進する宇宙の鳴動とトリオの優しさと愉悦。これこそ天意と人為が見事に融和する完全な楽章だ。
ブルックナー:交響曲第3番ニ短調(第3稿、改訂版)
朝比奈隆指揮新日本フィルハーモニー交響楽団(1996.12.12&16Live)
フィナーレはスケルツォをさらに一歩進ませた「すべての統合」を表出するブルックナーらしい音楽だが、第3稿では大幅に短縮されている分ややバランスを欠く。とはいえ、この凝縮されたフォルムを選んだ朝比奈はここに全生命力を注ぎ込み、緊張感に満ちた音楽を再創造する。再現部からコーダにかけての「高揚」は聴く者をその名の通り昇天させる勢い。相変わらずの終演後の拍手喝采に嫉妬を覚える・・・。
さて、第1楽章に話題を戻す。トランペットによる主題の音量をできるだけ抑え、伴奏部にいかにも寄り添うように、そして音楽が湧き出づるように奏される冒頭に心震える。さらにはコーダの流麗な旋律美に、武骨で愚直な朝比奈芸術からの超越を想う。天才ワーグナーをモチーフにした音楽は、第3稿に至ってはそのワーグナーからの直接的引用が完全にカットされていることが残念なのだが、それがゆえのブルックナーにしか書けないブルックナーがある。
2001年11月に朝比奈隆は再び交響曲第3番を披露する予定だった。僕の手元にはしっかりチケットがあった。朝比奈のブルックナー3番にようやく触れることのできる期待と興奮に僕の心は躍っていた。しかし・・・。
一層深化し、凝縮と精神美が横溢する透明な名演奏が眼前に現れたのかもしれないと思うと・・・。いや、最円熟期の演奏を前にそんな妄想は無意味。
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今でも、2001年7月の朝比奈さんの最後のコンサートになったブルックナー、交響曲第8番を思い出します。第3番のコンサートのチケットが取れなかったとはいえ、コンサートが中止になり、複雑でした。そして、逝去となりました。日本ではオーケストラがしっかりならせる指揮者でしたね。
>畑山千恵子様
あの8番は最高でした!