朝比奈隆のブルックナー交響曲第2番(1994)を聴いて思ふ

bruckner_2_asahina_19941871年8月にアントン・ブルックナーはロンドンでオルガン奏者の巨匠として、および即興演奏の名手として、大変な喝采を博した。彼は何人かのイギリスのオルガン奏者とともにただひとりのオーストリア人として、アルバート・ホールにヘンリー・ウィリスが製作した大オルガンを演奏するために、招待されたのであった。それに引き続いてブルックナーは水晶宮でも演奏会を催し、同様に無比の成功を収めた。

1872年6月16日に行われたヘ短調ミサ曲の初演はウィーンの批評家たちの喝采(ハンスリックでさえ)を受けたのであるが、このことは作曲の進行を大いに促進させるように作用した。
1965年7月、レオポルト・ノヴァーク(大崎滋生訳)
レオポルト・ノヴァーク校訂の批判全集版にもとづくミニアチュア・スコア(音楽之友社)序文より

自己肯定感は創造力を飛翔させる。
アントン・ブルックナーが交響曲第1番を発表し、後に「第0番」と呼ばれるものを書き上げながら一度引っ込め、新たに生み出した「第2番」は、創造力の爆発甚だしく、音楽的エネルギーがそれ以前の作品に比較し格段に飛躍する。この作品をもってこの人はいよいよ「天才」の道を切り開いてゆくのだと僕は思う。

「天才」は同時代にはなかなか理解されない。この作品も演奏不可能として初演にこぎつけるまで種々の苦難があり、相応の時間を要した。しかし、作品そのものは後期の作品に負けず劣らず魅力的だ。

ブルックナー:交響曲第2番ハ短調(ハース版)
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団(1994.1.24-27録音)

朝比奈隆が、晩年に、もはや実演でこの作品を披露しなかったことが惜しい。
よって残念ながら朝比奈隆の「第2番」についてはいくつかの録音上でのみ接するに過ぎない。

第2楽章以下が、大いなる自己肯定感の下に作曲されたことは間違いないが、実は第1楽章だけは事情が違った。同じくノヴァークの序文から引用する。

したがって彼は9月に意気揚々とウィーンに舞い戻ったのであるが、しかし芸術家冥利に尽きるいわば天国から懲戒のための査問という地獄へ突き落されることになる。ブルックナーはザンクト・アンナ女子師範学校でオルガン演奏と音楽理論を教えていたが、そこであるひとりの女生徒にいささか無骨に言い寄ったということである。ブルックナーをこの貶めるような査問にかけるには一通の匿名の投書で十分であった。この告発が不当なものであることは証明されたが、この事件はブルックナーの信仰篤い実直な心情に深い傷を残した。

ノヴァークによると、第1楽章だけはこの事件以後に書かれたものだという。
ブルックナー音楽に「正負」様々な感情が包含され、聖俗あらゆる事象が投影される(ように聴こえる)のは彼の思考と実際の体験との乖離から来る「矛盾」の発露だと僕は思うが、それであるがゆえに専門家含めた聴衆から理解を得るのが難しかったのだろうと推測する。頻繁に登場する全休止やフォルテとピアノが段階的にでなく、突然切り替わる様は、まさに「負」の体験の解放のためであったと考えられなくもない。

朝比奈隆のブルックナーは見事に安定する。
第2楽章アダージョの、静かで崇高な祈りに心が洗われる。スケルツォは野人の俗的舞踏だ。そして、フィナーレの圧倒的解放こそがブルックナーの結論であり、ここには後の彼の作品群を凌駕するほどの精神性が垣間見られ、しかも朝比奈の類稀なる雄渾な解釈によって音楽はさらなる高みに昇華されるのである(その意味でこの音楽はスタジオでの録音でなければならなかったのかも)。気のせいか、この終楽章にはモーツァルトの「魔笛」の体現が感じ取れるのである。

 

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