schuman_klemperer.jpg今日から試験的に「エルーデ・サロン」が始動するのにあわせ、要らない物は破棄、移動し、ほぼ形は整った。身軽になるとこうも気持ちがいいものかとあらためて確認した。それに、日中の陽気と強風もいよいよ春めいてきた感を強めてくれた。考えてみるともう4月である。2010年も早くも4分の1が過ぎたことになる。

「人を認めること」、「どんなに偉くなっても謙虚でいること」、本当に成功している人はほとんどがそういう態度をもっているという。それも自然体で。

昨日も「『人間力』日記」の方に書いたが、ほめられて嫌な気になる人はいまい。貶したり、否定したりするのではなく、たとえ些細なことでもよかったことをよかったと言ってあげるだけで人の可能性って格段に拡がるのだから素晴らしい。ほめられて伸びるというのは誰にも当てはまることだろう。

明日からベンチャー企業合同の新人合宿の講師を任されているが、社会の厳しさを教えると同時に、協力・共生の大切さ、そして何より「辛いときもめげずに続けること」の重要性を教えたいと考えている。たとえ相手が新人だろうと謙虚に、しかも「人を認める」という姿勢を忘れずに。

ロベルト・シューマンは作曲家として抜群の能力を発揮したが、それ以上に長けていたのは人を見る目であり、人を育てる腕だった。何より新しい才能を発掘する才能が人並み外れていた。ショパン然り、ブラームス然り、彼のお陰で世に出ることのできた大作曲家は数知れない。

シューマン:交響曲第1番変ロ長調作品38「春」
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

ようやくクララとの結婚が認められた矢先の、幸福の絶頂期のロベルトが生み出した音楽はいずれも情熱的で、エネルギーがたぎっているが、その最右翼が1841年に作曲された「春」の交響曲だろう。愛する妻への愛情、そして自然への賛歌。この作品の各楽章に当初添えられていた表題、「春の訪れ」、「黄昏」、「朗らかな戯れ」、「春爛漫」がそのことを物語っているが、何より音楽に内在する感情のほとばしり、勢いが半端でない。

クレンペラー盤は名演奏の名盤として昔から有名だが、リラックスした中にクレンペラーらしい悠揚たる地に足のついた表現がなされており、いつどんな時も安心して身を委ねられる傑作だと僕は思う。とにかく「暖かく、温かい」、その一語に尽きる。今日のような「春を感じさせる日」にぴったりの1枚。


4 COMMENTS

雅之

おはようございます。
>今日から試験的に「エルーデ・サロン」が始動するのにあわせ、要らない物は破棄、移動し、ほぼ形は整った。身軽になるとこうも気持ちがいいものかとあらためて確認した。
新年度からの新しいご発展への門出、おめでとうございます。要らないものを破棄するということは、一からリセット出来ますよね。日本の昨日までの繁栄だって、戦争で焼け野原になって、一度すべてを失ったからこそ可能だったのでしょうね(失ってはいけないものまでも失いましたが・・・)。
>「人を認めること」、「どんなに偉くなっても謙虚でいること」
実るほど頭の下がる稲穂かな、ですね。
>ほめられて嫌な気になる人はいまい。貶したり、否定したりするのではなく、たとえ些細なことでもよかったことをよかったと言ってあげるだけで人の可能性って格段に拡がるのだから素晴らしい。ほめられて伸びるというのは誰にも当てはまることだろう。
プロ野球や高校野球の名監督などが、よくおっしゃっているのをテレビや新聞などで見聞きしますが、「昔は、叱って伸びる選手が多かったが、今はほめなきゃ選手は伸びないし、付いてもこない」というのが常識みたいですね(楽器を教えるのもそうじゃないですかね)。民主主義と個人主義が定着し、それだけ社会が成熟したということなのでしょうが、それに伴い、国民のひとりひとりの心が、じつに繊細になり傷付きやすくなったということでもあるのでしょうね。よく男が「草食系」になったといいますが、勿論私自身も含め、日本人全体が軟弱な「草食系」になったと認めざるを得ないのではないでしょうか? それは、たくましさやハングリー精神の欠如、国際競争力の著しい低下に直結しています。 
サッカーの日本代表の試合を観ていても何となくそう思います。
皮肉なもので、2002年のワールドカップでトルシエ監督は、その変な采配で猛烈な批判を浴びながらも、選手を叱り飛ばして反発心や競争心を煽り、それをプラスのエネルギーに変換して予選突破を果たしましたが、その4年後、後任のジーコ監督は日本サッカーを愛し、選手個人の自主性を認め、選手をほめて、予選敗退しました。結果が全てではありませんがね・・・。
岡本さんが声高に「愛」を強調しなければならないのは、それほどまでに「愛」が少ない世の中になったからなのでしょう。職場にも、地域にも、学校にも・・・。それは悲しい今の日本の現実です。「愛」を持て!、もっとポジティブに!、昭和30年代の、今以上に格差があって、貧しく厳しい日々の現実に向き合いながらも、未来に希望いっぱいだった親や祖父母世代の日本ではなく、平成22年の今日の日本でこそ、強く求められるメッセージなのでしょう。そういえば、テレビの昭和時代の特撮もののリメイクなんかでも、「愛」を強調したコンセプトへの、強引な変更が目立ちます。
シューマンの「春」は、古き良き昭和時代の学生のころ、他大学のエキストラで演奏に参加しました。指揮者は若き日の竹本泰蔵さんでした(今でも充分お若いですけど・・・笑)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%9C%AC%E6%B3%B0%E8%94%B5
ずばっと弱点を見抜き、よく奏者を叱っていました。厳しかったし、けっこう怖かったです。でも、岡本さんがおっしゃるように、そこには「愛」を感じることができました。そして、とても満足できる良い演奏になりました。こういう「人間関係」は本物です。
シューマンは、オケの作品も、ピアノ作品も、室内楽も、私にとっては「青春の記念碑」です。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
>要らないものを破棄するということは、一からリセット出来ますよね。日本の昨日までの繁栄だって、戦争で焼け野原になって、一度すべてを失ったからこそ可能だったのでしょうね(失ってはいけないものまでも失いましたが・・・)。
おっしゃるとおりです。すっきりしました。
>よく男が「草食系」になったといいますが、勿論私自身も含め、日本人全体が軟弱な「草食系」になったと認めざるを得ないのではないでしょうか? 
そうですね。ただし、「草食系」が必ずしも軟弱とは思わないんですよね。見方を変えるとそれこそおっとりしていて愛情深いという捉え方もできますから。
>「愛」が少ない世の中になったからなのでしょう。
これはその通りだと思います。
何とかしたいという一心でやっております。
雅之さんのシューマンへの「愛」は以前からひしひしと感じられ、いろいろと教わりたいことがあります。
機会がありましたらまたゆっくりとお話ししたいですね。

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ザンパ

おはようございます。お久しぶりです。
4月1日のエントリーということでクレンペラーを押しているのはご冗談だと思っていいんですよね~(笑)。
クレンペラーのシューマン・シンフォニーはどれも凡演だと思いますけど…。残念な録音遺産の最右翼だと思います。雅之さんもそれを言いたいけど言ってない感じが、はずれかな(笑)。
ワグナー風のアプローチですが、本当に彼がワグナーを指揮したときと全然気合いが違うというか、スカスカで、やっぱり、思い入れの違いだと思うんですが。
なんか、ケンカ売っているようでスイマセン。m(__)m

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岡本 浩和

>ザンパ様
おはようございます。久しぶりのコメントをありがとうございます。
エイプリル・フールですが、クレンペラーのシューマン、冗談ではなく僕は名演奏だと思うんですよね。
ただ、あくまで個人の感覚の違いですから、この辺は何ともいえません。
ひょっとするとザンパさんが感じられているように、録音そのものの問題もあるかもしれませんね。
いろんな感じ方があっていいと思いますよ。

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