ガーディナーのシューマン「ツヴィッカウ交響曲」を聴いて思ふ

schumann_symphonies_gardiner音楽を聴いて空想することの面白さ。
会ったこともない作曲家について思い巡らし、作品が生み出された土地について(行ったこともないのに)様々想像することは純粋に感性を刺激する。
特に、どんな音楽家の場合でも、インスピレーションをそのままプリントしたような、荒削りで未整理のいわゆる「初稿版」には大いなる発見がある。あるいは、どういう理由かわからないがお蔵入りになったトルソ(未完成)作品も、出来の良し悪しは別にして、享受する者が空想の羽を広げられるという意味で格好の材料であり、そういうところにこそ音楽を聴く醍醐味があるように僕は思う。

音楽家にとって(いや、音楽家に限らずだが)、世間から「認められる」というのは生きていく上で大切なファクターだった。そして、得てして天才というものは同時代には受け入れられないことが多かった。ロベルト・シューマンは、指の故障のせいもありピアニストの道を断念したという(その代りと言っては何だが、後に妻となるクララ・ヴィークにピアニストとして大成するという夢を託したようにも見える)。そして、作曲家として認知されるのにも時間を要した。あの時代に輝かしいばかりの実績を残したのは批評家としてのその力量。ショパンを発見したのも、ブラームスの天才をいち早く世に知らしめたのもシューマンその人だった。

若きシューマンがチャレンジするも未完に終わった通称「ツヴィッカウ交響曲」。1832年11月18日、第1楽章のみ初演されるも聴衆は冷ややかだった。その後、第2楽章まで完成されるも演奏された形跡はないという。
第1楽章モデラートの、冒頭4つの和音の仄暗さと、オーボエ独奏の憂愁。ここには間違いなくシューマンのオイゼビウス的個性が転写される。何という激情。そして、続くアレグロの軽快で明朗な響きには明らかにフロレスタン的要素が垣間見える。第2楽章の意気揚々たる自信に満ちた歩みと、情熱ほとばしる旋律の妙。これほどにシューマンらしい作品なのに。

何ゆえにシューマンは筆を措いたのか。
なるほど「認められなかったから」に違いない・・・。
どこか分裂的な作品を当時の人々が理解するには早過ぎたのか・・・。

シューマン:
・交響曲ト短調(ツヴィッカウ交響曲)WoO29
・交響曲第1番変ロ長調作品38「春」
・序曲、スケルツォとフィナーレ作品52
ジョン・エリオット・ガーディナー指揮オルケストレル・レヴォリュショネール・エ・ロマンティーク

今目の前で音楽が生まれたかのような「新鮮さ」こそがガーディナー&オルケストル・レヴォリュショネール・エ・ロマンティークの真骨頂。
打楽器のアタックを強調した切れ味抜群の、そして木管楽器の独奏を浮き立たせ音楽が躍動する「春」の交響曲が素晴らしい。第2楽章ラルゲットの美しく静謐な癒し感は、当時クララとの幸福な結婚生活に満ち満ちていた心の表れのよう。火を噴くようなスケルツォは例の「関白宣言」の焼き直しか?(しかし、柔和なトリオによって中和される)
愉悦的なフィナーレは未来への希望だ。少なくともこれを書いたその時、ロベルト・シューマンは自信に満ちていた(同時期に生み出された作品52にも同様の安定感を僕は感じる)。

この交響曲全集にはニ短調交響曲の初稿が含まれているというのもミソ。それについてはいずれまた書くことにする。

 

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