モントゥー指揮北ドイツ放送響のベルリオーズ「幻想交響曲」を聴いて思ふ

berlioz_fantastique_monteu_ndr056昨日、イーヴォ・ポゴレリッチを聴いて思った。
彼の生み出す音楽からは、たとえそれが標題を伴うような作品であったとしても聴く者に「何か」を一切想像させない「絶対」があった。普通ならば、作曲家が意図した背景や、あるいは彼らが創造の動機とした体験や風趣や、そういうものを知ることが、その作品を享受するのに大いなる参考になってくれるものなのだが、しかし一方で、背景というのは裏返すと足枷にもなり得、作品の捉え方、理解を小さな箱に閉じ込めてしまうということにもつながるので、音楽のイメージが一般的に固定化されてしまうということも起こり得る。そう考えると、僕たちは何も知らずにただひたすら音楽を耳にする方が幸せなのかもしれない。
あるいは聴く者に想像を与えない、否、想像を超える音楽の再生を演奏者ができたら、聴衆と奏者の関係は一期一会の、もっと白熱したものになるということなのだろうか・・・。

ともすると演奏家と聴衆との間に予定調和的常識しかもたらさないことの多い現代の(演奏者と聴衆の関係においての)「音楽環境」。なるほど、ポゴレリッチがここ数年の間試行錯誤しながら再生していたエキセントリックな解釈は、おそらくそういう予定調和的常識を超えるための僕たちへの挑戦状だったのだと考えることもできるのでは。

例えば、ポゴレリッチのシューマンには、音楽以上のものはなく、もちろんそれ以下のものもなかった。僕たちに想像の余地を与えないのだ。そこにはロベルト・シューマンという作曲家の意図のないただ純粋な音楽が鳴っていた。
ちなみに、「幻想曲」作品17は、もともとソナタとして企図されたもので、その際3つの楽章にはそれぞれ「廃墟」、「戦勝記念品」、「栄光」という副題が与えられていたものの、いざ出版社に持ち込んだところ賛同を得ることができず(ベートーヴェン没後10年の記念碑をボン市に建設するための寄付活動の一環として計画)、結局シューマンは副題を取り除き、タイトルも「幻想曲」に改め、ようやく出版に至ったという経緯がある。

作曲者が副題を取り除いた以上、そんなものは何の助けにもならないのだが、しかし、あえてそういう過去やもともとあった副題を意識して聴いてみると作品理解を助長するものになることは確か。やっぱり人間はそれほどに想像する生き物なのである(それはまた思い込みにもつながるということ)。

ここまで書いて思った。幻想と現実が作曲者の内側で錯綜し、強烈な思い込みから創造された傑作(標題音楽の最右翼?)、ベルリオーズの「幻想交響曲」。スコアに付されたプログラムは次のようなものだ(志鳥栄八郎氏による大意)。

恋に狂い、人生に飽きた若い芸術家が、阿片を飲んで自殺をはかるが、毒薬の分量は致死量に達せず、重苦しい眠りと異常きわまる数々の幻影を生む。そして、その幻影のなかに芸術家の恋物語が再現し、おそろしい結末を導く。

作曲者が明確に物語を指定している以上、聴く者はどうしてもそれに縛られる。
ところが、そういう物語を一切忘れさせてくれる演奏、ひたすら作品に対峙し、音楽そのものの純粋な喜びを教えてくれる演奏がある。

・ベルリオーズ:幻想交響曲作品14
ピエール・モントゥー指揮北ドイツ放送交響楽団(1964.5.6-14録音)

第4楽章「断頭台への行進」に恐怖はない。音楽がただひたすらうねり、咆哮する。
終楽章「魔女の夜宴の夢」における「怒りの日」のコラールも、余計な想念を捨てよとばかりに醒めている。しかし、それでいて実に音楽的なのだ。

ピエール・モントゥーの方法は、晩年になればなるほど音楽がいわば「絶対化」していった。例えば、生涯幾度も録音したベルリオーズのこの傑作などは、いずれのものも超のつく名演奏であるのだが、最晩年の北ドイツ放送交響楽団との、老境とはほど遠い、灼熱でありながら崇高で透明な音楽に、これこそ「常識」を打破した、ベルリオーズの意図、目論み、そして標題すらを超越した何かの蠢きを想うのである。

おそらく音楽家が死の直前になって悟りを開くかの如くの境地に至った時に再生の「絶対化」が起こるように思うのだが、ということは50代のポゴレリッチの場合はいまだ発展途上のそれであり、モントゥーら老練の指揮者らのそれにはもちろんまだまだ及ばない。しかしながら、それらとは性質を異にするまったく別種の「絶対化」が彼の内側で起こりつつあるように昨日、僕には思われたのである。

ところで、伴侶を失くしたとき、ポゴレリッチは精神衰弱に陥ったと聞く。
あの時の病が(音楽家としての)死に至らしめるものでなかったことが幸い。シューマンの幻想曲を聴いて、いよいよ復活の兆しが見られたことに万歳。とはいえ、真の復活が叶うには、演奏中に余計な感情や想念を交えないほどの空(くう)を体得するためにこの人はまだまだ年輪を刻まねばなるまい。昨日の、あまりに感情的に寄り過ぎたブラームスのパガニーニ変奏曲は少々残念だった・・・。

 

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