果たしてベートーヴェンは本意だったのか?
今日の演奏を聴いて直感した。いや、彼は交響曲第9番の後も次なる交響曲を推敲していたわけで、当時はまさかこれが最後になるとは予想だにしていなかったはずだから、ハーガーのあまりに直球の人間臭い解釈と音のドラマに多少の違和感を持ちながらも、そもそもこの曲はこういうものなんだと僕は自らを納得させた。とにかく苦悩も熱狂も、そして安寧も、すべてを否定しての歓喜が見事に表現された素晴らしい演奏だった。
まだまだ生きるつもりだったベートーヴェンの頭の中には、「歓喜」を超える、それこそ「自由」というものを体現した作品があの時点ですでにあったはずだ。そんなことを確信させてくれた一夜。
レオポルト・ハーガーと言えば、僕の中ではあくまでオーストリアの片田舎の指揮者で、どちらかというと伴奏を専門にする人というイメージがあったものだから(実際にはオペラ指揮者から順当に昇りつめた立派な指揮者)、今宵の主体的で前のめりの演奏を聴いて正直驚いた。何より全体観に優れ、細部を緻密に磨き練り上げるというより全体の流れを最重要視した演奏は、第9交響曲をあまりよく知らないという人にもそれを身近なものにするようなとても軽快かつ明朗なものだったろう。超満員の会場の中にはおそらく何も知らずにそれこそ「お付き合い」で来場した人もいらしたのだろうが、そういう方にもとても容易に受け容れることができたであろう、そんな音楽が繰り広げられた。
第12回読響メトロポリタン・シリーズ
東京芸術劇場コンサートホール
2014年12月18日(木)19:00開演
・ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付き」
アガ・ミコライ(ソプラノ)
林美智子(メゾソプラノ)
村上敏明(テノール)
妻屋秀和(バス)
新国立劇場合唱団
ダニエル・ゲーデ(コンサートマスター)
レオポルト・ハーガー指揮読売日本交響楽団
興味深いのはどの楽章も、ほとんどパウゼを無視するかのように一気呵成に音楽が進められたところ。その分、呼吸が浅くなるのは確かなのだが、しかし前述したようにハーガーの解釈が全体をしっかり見据えた上でのものなので、バランスが良く、しかもまったくの弛緩がない分本当に楽しめた。
中でもスケルツォの躍動感と、トリオの一層テンポを速めての浮遊感の美しさ。第3楽章アダージョ・モルト・エ・カンタービレの色褪せた「歌」の透明感。もちろん終楽章の圧倒的祝祭には心底痺れた。
しかし、そこにあったのはあくまで「人間による人間のためのドラマ」だ。
ただしそれは、本来ベートーヴェンが目指したものではなかったように僕は思う。
ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。
これは拾いものでしたね。これだけ素晴しい第9を聴けたことはよかったですね。バスを歌った妻屋秀和さんは、ドイツ・オペラをやりたいということで、藤原歌劇団から二期会へ移籍しました。2015年7月のモーツァルト「魔笛」が、妻屋さんの二期会での始めての舞台になりますので、ご期待ください。
>畑山千恵子様
はい、良かったです。
ちなみに、妻屋秀和さんは、当初出演が予定されていた松位浩さんの代役でした。
深みのある圧倒的歌唱に恐れ入りました。
[…] 昨夜、読響のコンサートでいただいた冊子に平野昭さんによる「〈第九〉の意味~〈ミサ・ソレムニス〉の対作品として~」という特集記事があり、なるほどと頷かせる見解に膝を打っ […]