何という一日!!
聖俗、いや、清濁、ノー。右、左。何て表現が相応しいかもはや説明がつかないが、人生の二つの側面を直接的に見せつけられた一日だった。どちらも幸せだろう、そう、幸せなんだと思う。ただし、本日宣言したように「判断」しない。ただただ、それらを在るがままに見る、それだけ。
昨日の読響のコンサートを聴いて思ったこと。
ラフマニノフのコンチェルトはさすがにピアノがオケの音量に埋もれてしまって細部が聴き取れなかったのが残念だったのだが、一方のアルペン・シンフォニーでは、オルガンの荘重な響きが、特にソロで主題を奏でるところでことさらにメロディが浮き立ち、すごく感動した。少なくとも音盤で聴く限りにおいてあのような立体的な響きを体感することはまず無理。ライヴならではの体験だと思うが、そもそもシュトラウスの音楽自体が大空間と時の流れを明確に想定して書かれたものであることがわかって真に面白かった。
オルガンとオーケストラの協演というのはシュトラウスの作品中では常套的に現出する手法であるけれど、そういえばザルツブルク時代のモーツァルトがミサのためのソナタを数多く作曲しており、それがオルガンと管弦楽の協奏であることを思い出し、聴いてみた。
さすがにアマデウス。10代後半から20代前半にかけての若書きだけれど、聴けば聴くほど味わい深い。音楽的には宗教的厳粛な雰囲気よりむしろ世俗的な機会音楽として機能するかの如く愉悦的(調べてみると、当時は、現在想像するような教会と世俗の意識的な区別がなかったそう。なるほど)。
そもそもこれら「教会ソナタ」は1770年代に集中的に書かれている。
その頃、教会でミサが執り行われるとき、本来のミサの部分のほかに「ソナタ・アレピストラ」と呼ばれる器楽曲が演奏されていたとのこと。モーツァルトの「仕事」の幅広さ、そしてその一端がこういうところにも見ることができるのは興味深いことだ。
モーツァルト:オルガンと管弦楽のための教会ソナタ(全17曲)
マリー=クレール・アラン(オルガン)
ジャン=フランソワ・パイヤール指揮パイヤール室内管弦楽団(1964-65録音)
アランのオルガンが光る。渋いという表現の方が正しいか。
いずれにせよ、これまたオルガンのソロが出てくるシーンで一層の感動を覚える。
帰宅は午前3時半。いやはや久しぶりの銀座&六本木徘徊(笑)。
先日の中学の同窓会での再会を機に東京での会食。自分とは正反対の生き方をする同級生の後姿を見ていろいろと学ばせていただいた。すべてが桁違い。こういう人間が我が故郷から出ているという事実に眩暈(笑)。
深夜の、否、未明にモーツァルトが祝福する。
明日も良い一日になりそうだ。
連日、お疲れ様でございます。
‘two sides of the coin’、或いは‘counterparts’というものでしょうか。
ドイツ・バッハ・ゾリステン&ダニエル・コルゼンパ盤もオルガンの音色の
好みが分かれるところだと思いますが、なかなかです。
20世紀最大のオルガニストとも呼ばれるマリー=クレール・アラン。
ご尊父はA・ギルマンやL・ヴィエルヌに師事したオルガニストであり、
ご自身はM・デュプレに学んだという、オルガン界でこれ以上のものは
ないと言って構わないであろう血統の良さ。
「完璧過ぎて面白くない」と思っていましたが、そうした環境の下に生まれ
このようになるというのは、持って生まれたものだけの話では
ないのですよね?
岡本さんの「渋い」で、改めてそこに気付かされたように思います。
ありがとうございます。
>みどり様
>‘two sides of the coin’、或いは‘counterparts’というものでしょうか。
まぁ、そうですね。もっと具体的にいうと「哲学」と「実業」とでも言いましょうか。どちらも「正しい」、そういうことです。
ドイツ・バッハ・ゾリステン&ダニエル・コルゼンパ盤は未聴なので、機会あれば聴いてみます。
>持って生まれたものだけの話ではないのですよね?
そうですね、人一倍の努力なんかはやっぱりあるのではないでしょうか。
やはりアルペンはシュタインですよね。
コメント欄が活況を呈していて、一読者として楽しいです(笑)。
この場を勝手にお借りして、ふみ様、ヤマザキ様、他の皆様に
感謝を申し上げます。
そして何より岡本さんに感謝を。 ありがとうございます!
>ふみ君
ホルスト・シュタインのアルペンは未聴です。
そういうなら必聴だね。聴いてみます。
ありがとう。
>みどり様
みどり様にもあわせて感謝いたします。