「災い転じて福来る」ということ

matacic_bruckner_7.jpg人はどうしても「対立」という意識をもってしまうもの。「目」は外にあるものを見るようにできている。耳は外の存在を聞いて認識するための機能だ。同様に「鼻」や「口」もそう。人間の持つ器官というのは「自」と「他」を区別認識するために備わっているようなものなのだが、一方でその機能が「孤立」や「誤解」などの問題を生む原因になっていると考えたことのある人はいるだろうか。ここのところいくつかの研修やセミナー、講座を通して考えさせられることが多いのだが、人生というのは「迷い」の連続で、自己責任という名の下その都度「選択」を求められる。最終的に自分が決断したことでも、環境に左右され、人の言葉や情報に振り回され、うまくいかなかったときには人のせいにしたがる。

仏教では「廻光返照(エコウヘンショウ)」といい、外に答えを求めるのではなく自分自身を省み、自らの中に答えを求めよと説かれている。なるほど言葉でいうのは簡単なことだがそれを実行するとなるとなかなか難しい。しかし、確かに問題の原因を人のせいや社会のせいにしているときは悶々として気が晴れないし、答えの出ない迷路に入り込み、八方塞で二進も三進もいかなくなる。その挙句、人にあたって迷惑をかけたり、そこまで勇気の出せない輩はストレスを溜め込んで心身こう弱状態に陥る。どちらにせよいいことがないわけで、結局のところ「対立」などしないであるがままの状態を維持し、流れに任せてしまうことが大事だということになる。この「自然の流れに任せて我(が)に振り回されない」ということがまた難しい。本当に人生って修行のようなものだとあらためて考えさせられる。

新年度を迎えて、この1年自分の身に降りかかったことや世間の状況を見て思うのは、「迷わず」自分自身が「こうだ!」と決めたことを信じて進んでいくことだけだということ。昨日の研修でも新人相手に口酸っぱく連呼したことは「継続」ということ。諦めないこと、途中で放棄しないこと。そうすれば必ず行くべきところに行き着くのだ。そして自らの「意思」を「伝えること」。必ずや協力者が出てくるし、その結果、「逆」も「順」に転じる。

昨晩は2日間の疲れがどっと出たものの睡眠が深かったようで、今朝は7:00には爽快に目が覚め、活動を始めた。活動とはいえチベット体操をやったり、掃除や洗濯をしたりというあくまで休日モードのものだが・・・。

ブルックナー:交響曲第7番ホ長調
ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮スロヴェニア・フィルハーモニー管弦楽団(1984)

死の半年前、巨匠マタチッチの最後の録音。昔、まだ高校生だった頃、スプラフォンから出ていたチェコ・フィルとの最初のLPでマタチッチの音楽を聴いたのが最初だったように思う。当時は朝比奈隆が聖フローリアン教会で演奏した大フィルとの名演盤をどちらかというと愛聴していたが、久しぶりにマタチッチ最晩年の第7交響曲を耳にして、「なるほどブルックナーの7番というのは年輪を重ねれば重ねるほど味わいの出てくる、とても内省的な美しさをもった楽曲なんだな」とあらためて感じた。そういえば、朝比奈も死の年の5月にサントリーホールで都響とのLiveを行い、その演奏もCD化されているが、件のフローリアン盤と趣を異にし、テンポも速めで若々しい中に神々しい静けさと祈りを秘めた名演だったことを思い出す。朝比奈御大が愛した言葉に「愚直」という言葉がある。そして師の教えは「一日でも長く生き、一日でも多くステージに立て」ということだったらしい。彼はその言葉通り人よりも長く生き、継続して愚直に演奏活動を行った。マタチッチ翁も然り。

⇒旧ブログへ


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む