ベルグルンド指揮ベルリン・フィルのショスタコーヴィチ交響曲第8番ほかを聴いて思ふ

stravinsky_shostakovich_berglund_bpo145ハーヴァード大学での講義第6課「演奏について」にあるイーゴリ・ストラヴィンスキーの言葉。

音は光とまったく同様に、それが発せられる場所とそれが受け取られる地点との隔たりに応じて異なる働きを及ぼします。舞台の上に位置する大勢の演奏実行者たちは、その人数が多ければ多いほど大きな面を占めることになります。音を出す点の数を増大させることによって、演奏者を相互に、そして聞き手から隔てる距離は増大します。したがって、音を出す点を倍加させればさせるほど、音の受容は不明瞭になるでしょう。
イーゴリ・ストラヴィンスキー著/笠羽映子訳「音楽の詩学」(未來社)P122

要は「音を出す点」はできるだけ少なく単純であるほうが良いとストラヴィンスキーは言うのである。

確かなことは、ある一定の拡大の度合いを越えると、強度の印象は増大する代わりに減少し、感覚を鈍化させるばかりだということです。
音楽家たちは、広告の専門家同様、自分たちの芸術についても事情はポスターの技術と同様であることを理解すべきでしょう。つまり、音の誇張は、あまりにも大きな活字が資格をつなぎとめないのと同様に、聴覚の注意を引かないということです。
~同上書P123

ことの正否はともかくとして、ワーグナーなどの巨大芸術を暗に否定するこれらの見解の意味は重い。特に、新古典主義の時代におけるストラヴィンスキーの音楽創造は、まさにこの言葉の実践であり、聴き手を演奏実行者と同列のパートナーと見立て、単純かつ明快な作品としていることに首肯する。

パーヴォ・ベルグルンド指揮ベルリン・フィルをバックにオリ・ムストネンが演奏した実況録音を聴いた。

ムストネンのピアノに「遊び」の要素が少ないことが、この作品独特のジャズ的要素を引っ込めてしまう一因になってしまっているが、ベルリン・フィルの類稀な機能性とベルグルンドの抜群のコントロールにより、音楽は客観的でありながら終始熱く語りかける。
第1楽章冒頭ラルゴにおける、セロニアス・モンクを思わせる敬虔なコラール風の音調に心惹かれ、主部アレグロでの軽快で前進的なピアノと重厚な足取りの金管群の対比にうなる。第2楽章ラルゴにおいても、ピアノの美しい旋律に導かれ、咆哮する金管に覚醒。そして、第3楽章アレグロでは、ムストネンは踊り、オーケストラは一層白熱する。
ムストネンのピアノには賛否両論あるそうだが、彼が以前アシュケナージと録音したより真面目で堅牢な演奏に比して一層自由さが増している分僕は好み。

・ストラヴィンスキー:ピアノと管楽器のための協奏曲
・ショスタコーヴィチ:交響曲第8番ハ短調作品65
オリ・ムストネン(ピアノ)
パーヴォ・ベルグルンド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(2001.5.18Live)

この日のコンサートの白眉は当然ショスタコーヴィチの方。戦時下に生み出されたこの讃歌は、どちらかというとソヴィエトの戦況が好転する中で書き上げられた作品であるにもかかわらず滅法暗い。しかしながら、巷間言われる暗澹たる音調を完璧に吹き飛ばし、ベルグルンドは長大な第1楽章から圧倒的解釈により聴く者をショスタコーヴィチの世界に誘い、否が応でも惹きつける。
第1楽章アダージョの出の意味深い低弦、そこに重なる悲しみの高弦のモチーフからベルグルンドのショスタコーヴィチへの一方ならぬ思い入れが感じられる。ポコ・ピウ・モッソにおける弦による旋律のそこはかとない哀感に痺れ、その後のアダージョでのおそらくエマニュエル・パユによるフルート独奏とその上に重なるオーボエの音調に感涙。クレッシェンドの阿鼻叫喚は凄味を増し、金管群が咆える。第169小節からの小太鼓のリズムに乗り、最初のクライマックスに卒倒。
さらには、アレグロ・ノン・トロッポでの重戦車の進軍の如くの大管弦楽の総奏が最高潮に達し、勝利の雄叫びを挙げる音楽においても演奏は一切の乱れを見せず、大きくうねる。第302小節からのむせび泣くイングリッシュ・ホルンの調べは亡くなった人々を悼む歌だろうか。ここでもベルリン・フィルの奏者の巧さが光る。結尾のアダージョでの突如爆発する金管にひれ伏し、息絶えるかのように静かに終結を呼ぶ弦楽器群の祈りに感謝。
ここにはこの作品に対するムラヴィンスキー以来の、そしてムラヴィンスキーとは違った意味での最高の解釈がある。
ベルリン・フィルの圧倒的演奏能力をもってすれば、ショスタコーヴィチの音楽は見事に有機的に蘇る。第2楽章アレグレット、第70小節以降のピッコロ独奏の巧さ!終結の一瞬の「溜め」にベルグルンドのセンスを垣間見る。
意外に遅めのテンポの第3楽章アレグロ・ノン・トロッポの堂々たる風格!!そして、皮肉に溢れる中間部のトランペットの剽軽な響き!!主部の再現では圧倒的エネルギーを勝ち取り、そのままアタッカで第4楽章ラルゴに入るが、トランペットからピッコロ、そしてフルートへと引き継がれるメロディの美しさ、クラリネットによる意味深い響きはこの世に存在するすべてのものへの祝福であり、崇高な祈り。
終楽章アレグレット冒頭のファゴット独奏と、合いの手のコントラ・ファゴットのやりとりに在る漆黒の響きに心打たれ、しみじみと歌われる音楽にショスタコーヴィチの人間的温かさを想う。終結アレグレットにおけるバス・クラリネット独奏の何気ない音楽は実に奥深い。

ちなみに、上記ハーヴァード大学での講義第5課「ロシア音楽の変化」の中で、ストラヴィンスキーは次のように語る。

自分の考えを要約して、次のように言おうと思います。現在のロシアの精神状態からすれば、結局、音楽とは何かを説明する2つの公式が存在することになるでしょう。一方は、いわば世俗的な様式、他方は、高尚で大仰な様式によるものです。トラクターやオートマシーン(それらが常套句になっています)に囲まれたコルホーズの人々が、(共産主義的運営がそう要求するような)当を得た快活さをもって庶民的な合唱にあわせて踊るというので、第一の様式は十分イメージできるでしょう。もう一方の高尚な様式のほうは、はるかにいっそう複雑です。そこでは、音楽は、「自らの偉大な時代の真っ只中に根を下ろした人間としての人格形成に寄与する」よう要請されています。
~同上書P109

重要なことは、この講義が1939年10月から1940年5月にかけてのものだということ。当時、ショスタコーヴィチの交響曲は第6番までが創造されていたことになるが、ショスタコーヴィチがまるでこの講義を聴講していたかのように、第7番「レニングラード」も、第8番も高尚で大仰な様式により「偉大な時代の真っ只中に根を下ろした人間としての人格形成に寄与する」よう書かれていることが奇跡。

 

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