「ドラマ」を聴くことの効用は大きく分けて二つ、すなわち耳を鍛えることと、それに付随して想像力を養えることであると思う。
リヒャルト・ワーグナーの楽劇の場合、随所に散りばめられたライトモティーフは、繰り返し聴くことで自ずと僕たちの記憶に留められる。そして純粋に音楽を耳にし、あらためてそのモティーフに遭遇したときに生じる高揚感、あるいは空想が僕たちの魂を大いに刺激するのである。
映像を伴わない、音楽だけで楽劇を鑑賞することの意味、意義はそこ、つまり音による魂の震撼にあると僕は思う。
幸運なことに現代には、多種多様な音楽を理屈抜きに楽しむ手段としていわゆる「記録媒体」が存在するのだが、19世紀のあの頃、一般大衆がかの大作曲家の作品群を享受するのに劇場に赴く以外に方法はなかった。そういう大衆の心(魂?)の渇きを癒すために生み出されたのがフランツ・リストをはじめとする作曲家の手による「ピアノ編曲版」という代物である。
エンゲルベルト・フンパーディンクによる「パルジファル」パラフレーズを聴く。
この、舞台神聖祝典劇という大仰な名の作品に現れる数々の主題が所狭しと並べられ、最晩年のワーグナーの崇高な世界を、劇場を訪問することなくして体感することのできた奇蹟にその当時の人々は何を思ったか。
「パルジファル」は決して難解な作品ではない。音楽を堪能し、ドラマを自由に謳歌しようではないか。
中で僕は、パルジファルの母である「ヘルツェライデの動機」の、短くも悲しみに溢れる音楽に心奪われた。続く「聖金曜日の魔法」の相変わらずの清らかな美しさに感動。
白鳥の命を奪ったパルジファルにグルネマンツが説教をする。
前代未聞の所業だ。
この静穏な森にありながら
よくも殺生ができたものだ。
神苑に遊ぶ動物たちは、お前になついてこなかったか?
親しげに無邪気な挨拶を送ってきただろうに。
木の枝から小鳥たちは何と歌いかけた?
おとなしい白鳥がお前に何をしたというのだ。
伴侶を求めて空へ舞い上がり
ともに湖上を飛びまわろうとしただけ。
沐浴のために湖を浄めてくれたのに
その神々しさに打たれもせず
たわいない弓矢遊びにうつつを抜かすとは。
われらにはかけがえのない白鳥だった。それが、どうだ?
~日本ワーグナー協会監修/三宅幸夫・池上純一編訳「パルジファル」P25
動物を殺すことが罪とは知らなかったというこの聖愚者が、「痛みに苦しむ女」を意味する母ヘルツェライデの死を知ったときの魂の変容・・・。何という愛、そして哀しみ。
ワーグナー:舞台神聖祝典劇「パルジファル」(フンパーディンクによる4手連弾のための編曲版)
・前奏曲
・アムフォルタス
・癒しの薬
・白鳥
・聖杯の城への入場
・愛の儀式
・クリングゾルとパルジファル
・花の乙女
・ヘルツェライデ
・聖金曜日の魔法
・ティトゥレルの葬儀
・救済
アナ=マリヤ・マルコヴィナ(ピアノ)
コード・ガーベン(ピアノ)(2012.5.25-27録音)
「ティトゥレルの葬儀」は、管弦楽版に比べ当然ながら「重み」には欠けるものの、哀悼の意を表する透明感に満ち、素敵だ。そして、さすがに敬虔な最後のシーンをピアノだけで表現するのは限界があるものの、それでも「救済」の、繊細で静けさに溢れる音楽の美しさにひれ伏す思い。
何よりフンパーディンクのワーグナーへの尊敬の念と愛が、ピアノという楽器の力を借り、僕たちのイマジネーションを大いに刺激する。
たった今、私は音楽をわが守護神と呼んだが、この守護神は、天上から私のもとに降り来たったのではなく、数世紀にわたる人間の独創的才能の血と汗の結晶なのである。それは、たとえば私の頭のてっぺんに、気づかれぬ日差しのように手を触れたのではなく、激しく憧れる胸の熱き血潮の夜にはぐくまれ、昼の世界のために外部へ生み出す力となったのである。
~ワーグナー著/三光長治訳「友人たちへの伝言」(法政大学出版局)P294
音楽こそは人間の歴史であり、人類の最大の発明だ。
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