移ろい、光と翳

バレンボイムの実演は協奏曲を含め何度か聴いているが、指揮者としての彼よりもピアニストとしての彼の方を僕は好む。もともとフルトヴェングラーの影響を受けているだけあり、録音の大方が巨匠の表現を模範にしたもので、それはそれで感動的なのだが、どうも受け売り的に思え、フルトヴェングラーの表現を咀嚼し、もっと自由にバレンボイムらしさが投影されたピアノ演奏こそが本領発揮というように僕には思えるのである。

もう20年も前になるだろうか。BUNKAMURAオーチャードホールでブラームスの2つの協奏曲をバレンボイムが弾き振りしたコンサートを聴いたとき、フルトヴェングラーの真似(?)を試みながら、その枠からはみ出すピアニズムを耳にし、やっぱり彼はピアニストとしてもっと活動した方が良いのにと、若気の至りながら感じたことを思い出した。

東京23区に大雨・洪水警報発令。さっきまで好天だったのに、今は雷を伴ったものすごい夕立。外を歩く人は傘を持てどもおそらくずぶ濡れになるだろうと思われるほどの激しい雨。すべてが洗い流されて「0(ゼロ)」に戻るような・・・。時間の移り変わりとともに地球も自然も刻一刻と変化する。そこに住まう人々の思考や思いも同様。瞬間瞬間の交わりにより、時に高揚し、時に落胆する。しかし、その交流が「本音」を通し真剣な場であるならどんな状況も包含し、一気に晴れ間が広がる。雨だろうと晴れだろうとお構いなし。泣いて笑って、苦しんで喜んで・・・、そんな人らしい生き方がまだまだできるだけで幸せというもの。

ダニエル・バレンボイムのピアノには時間芸術のベースとなるその「移ろい」に妙味があるのでは、とふと思った。特に実演においてその威力を発揮するのはかの巨匠フルトヴェングラーと同じ。聴衆があってこその音楽。彼は人と人との交わりを真に大切にする音楽家なんだろう。

モーツァルト:
・ピアノ協奏曲第26番ニ長調K.537「戴冠式」
・ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595
ダニエル・バレンボイム(ピアノ&指揮)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

このモーツァルトには発売当初から少々不満を感じていた。魂が抜けたような上っ面のモーツァルトに感じた。ちっとも感動しない。だから長らく封印した。実演ならこんな腑抜けじゃなかろうに・・・、などとも思った。
でも、少し聴き方を変えてみた。そう「移ろい」。例えば、第2楽章の管弦楽の強奏とそれを受け継ぐように奏されるピアノの絶妙な対比。この楽章だけをピックアップして聴いてみても実に感じるところが多いことに初めて気づいた(遅いか・・・笑)。モーツァルトの明と暗、光と翳。実は含蓄に富んだ名演奏。


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