僕に言わせれば、実にファンキーで、しかもコミカルな独特のワルツが頭から離れない(笑)。今日は朝から一日中鳴りっ放し。ショスタコーヴィチのチェロ・ソナタ第2楽章モデラート・コン・モート。
人を食ったような、この種の音楽はショスタコーヴィチの独壇場。どの作品を聴いてもそういうシーンは必ずどこかに見られるのだが、特にこのソナタの第2楽章は僕のツボにはまる。
作曲者の自演盤を聴いた。チェロはロストロポーヴィチ。この演奏についてはもはや一切の言及する術を僕は持たない。有無を言わせぬ圧倒的再現。ピアノが囁き、チェロが語る。それぞれがそれぞれの存在を最大限に引き出し、主張し過ぎず、また遠慮し過ぎず。何と絶妙な。第1楽章のロストロのチェロは実に雄渾でありながら繊細だ。この情緒に溢れたメイン楽章はドミトリー青年の体制への一種挑戦であり、自身の音楽への招待状だ。そのことはコーダの静けさに満ちた葬送行進曲を聴けばよくわかる。
続く第2楽章の冒頭、チェロによる無窮動的強奏は意外に余裕のある遅めのテンポ。それに応えるショスタコーヴィチのピアノはいかにも愛想良いダンスを披露する。そして、そして・・・、ラルゴ楽章は悲しみの歌だ。まるで人声のような、こういう響きはロストロポーヴィチにしか出せまい。それでいてフィナーレにおいては地から噴出するようなピアノに対峙しチェロが天声のように降り注ぐのだから天才の所業以外の何ものでもない。
さて、ホ短調の三重奏曲がまた格別に素晴らしい。ソビエトの類稀な演奏家たちが集合し繰り広げた演奏は、どこかに世界に対する恐れと不安が垣間見える。確かにこの演奏が収録された1960年当時は、冷戦真っ只中、いわゆる「雪解け」後の「危機の時代」に当たるゆえ。そういう空気もが音楽の内側に反映されることがそもそも興味深い。それと、周知の事実だが、この作品そのものが亡くなった友人であるソレルチンスキーの想い出のために書かれているということもあろう。悲しみを癒し、前を向いて歩いていこうとする希望。ここではオイストラフが主導権を握る。相変わらず豊饒な音色。
同じく独特のワルツが奏される第2楽章スケルツォもいかにもショスタコーヴィチ風で僕好み。さらに、フィナーレには第8弦楽四重奏曲の主題と同じものが現れる。嗚呼、何て懐かしく、何て美しいのだろう・・・。
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