オイストラフ&クレンペラーのブラームス:ヴァイオリン協奏曲(1960録音)を聴いて思ふ

schumann_brahms_oistrakh_klemperer237アニー・フィッシャーの弾くシューマンのピアノ協奏曲冒頭の、管弦楽による重い一撃の後の、ピアノが入る一瞬の「間」の何という奇蹟!ここにはオットー・クレンペラーの天才的ひらめきがある。
これは、明らかにクレンペラーが主体となって創り上げた音楽に、フィッシャーが追随、ニュアンス豊かにシューマンの心を歌い上げた、どちらかというとクレンペラーの妙技を聴くべき録音である。

とはいえ、第1楽章アレグロ・アフェットゥオーソのカデンツァでの、あらゆる呪縛からようやく逃れたかのような自由闊達な躍動に、フィッシャーのシューマンへの愛情を思う。そして、第2楽章間奏曲の、まるでクララ・シューマンが夫に語り掛けているかのように演奏する静かで愛らしいピアノの響きに感動。続く終楽章アレグロ・ヴィヴァーチェも、指揮者の色に染められる中、ピアニストは欣喜雀躍し、シューマンの喜びを見事に表現する。

一方の、ダヴィッド・オイストラフを独奏に迎えてのブラームスのヴァイオリン協奏曲では、クレンペラーはもっと客観的で冷静で、どちらかというとオイストラフのヴァイオリンが終始舵をとる。オイストラフの音は本当に美しい。おそらくブラームスのこの作品の録音で1,2を争う出来だと僕は思う(後にオイストラフはセルとも再録しているが、オーケストラとの絶妙なバランスといい、水も滴るような瑞々しいヴァイオリンの音色といい、クレンペラー盤の方が一枚上)。

とはいえ、クレンペラーが完全黒子に徹するはずはない。オイストラフの素晴らしいヴァイオリンを支える重厚で有機的な管弦楽の響きは巨匠ならでは。さすがにフランスのオーケストラだけあって表面上は実に明るい雰囲気を醸す。こんな音楽のサポートがあるなら独奏者は安心して自身の旋律に身を委ねられることだろう、オイストラフはブラームスの魂を見事に紡ぎ上げる。

・シューマン:ピアノ協奏曲イ短調作品54
アニー・フィッシャー(ピアノ)(1960.5 & 1962.8録音)
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団
・ブラームス:ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品77
ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)
オットー・クレンペラー指揮フランス国立放送管弦楽団(1960.6録音)

第1楽章アレグロ・ノン・トロッポのヨアヒム作のカデンツァの自然体で朗々たる節回しに心動く。やっぱりオイストラフのヴァイオリンは特別だ。
そして、第2楽章アダージョの、オーボエの哀愁溢れる主題に遜色なく濃厚な慈愛を見せるヴァイオリンの旋律はやはりオイストラフならではのもの。自信と余裕の賜物とでもいうのか、終楽章アレグロ・ジョコーソ、マ・ノン・トロッポ・ヴィヴァーチェにおいてクレンペラーとオイストラフは完全にひとつになる。嗚呼、美しい。

ところで、若きライナー・キュッヒル氏はオイストラフの演奏を聴いて、心底感動したらしい。そして、慈しみに溢れたこの人の前では実に緊張したそうだ。

あれは1970年の第4回チャイコフスキー国際コンクールでした。舞台から客席を見ると、そこにオイストラフとシゲティとコーガンという3人の大物が座っている。オイストラフは慈悲深いお父さんのような雰囲気。コーガンは、小柄でとても険しい顔をしていました。19歳だった私はかなり緊張しましたよ。
その2年後、ブダペストへウィーン・フィルの公演で行ったときです。クラウディオ・アバドの指揮でハイドンの「ヴァイオリンとオーボエ、ファゴット、チェロのための協奏交響曲」を弾いていたら、客席にまたオイストラフが座っている。彼がいると、やっぱりいい演奏をしなければという意欲が高まります。
~ライナー・キュッヒル「人生の贈りもの―わたしの半生」2015年6月11日付、朝日新聞夕刊

 

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