CARLOS KLEIBER “I am lost to the world” (2011)を観て思ふ

繰り返し2度観た。
震えるほど感動した。人生の後半、極端にレパートリーを絞り、晩年はもはやほとんど指揮台に上ることのなかったカルロス・クライバー。ペーター・ヨナスの回想が興味深い。

一度ミュンヘンにあるルチア・ポップの自宅で面白半分にブルックナーの第8番の録音13本を比べて聴き、各クライマックスを分析したところ彼は全部知っていた。

何と、ブルックナーを研究していたということに驚愕。
やはりカルロスは音楽家であり、稀代の指揮者なのだ。
ただ、常に完璧さを求めたカルロスにあって、聴衆を前にするのは真っ平ごめんだった。元ウィーン国立歌劇場事務局長イオアン・ホーランダーはかく語る。

クライバーの失敗は、芸術家として完成や達成が不可能な要件を追求したことだ。

なぜ彼は不可能な完成や達成を求めたのか。
その理由は、彼の過去、あるいは両親とのことを知ればわかる。
数々語られる過去のエピソードの中でも、特に、偉大なる父エーリヒとの関係についての言及に答があろう。ともすると独裁者然としていたといわれるエーリヒに、カルロスは幼少から常に次のように紹介されていたという。

これが音楽的才能のない私の息子カルロスです。

カルロスの潜在的恐怖、心の傷は、間違いなく父親からの否定的なストロークが原因だ(同時に、父エーリヒの死の真相は不明だが、両親ともに自殺だとされることも大きな影響があるだろう)。彼は音楽活動によってそのことを乗り越えようとした。しかし、どんなに名声を得ようと、最後は自らの手で音楽家としての自らを葬ったようなものだ。自己受容感、自己肯定感の不足が招いた悲劇とでもいうのか、しかし、そういう負のエネルギーがまた彼の芸術を形成する大きな要因であったことを考えると、残された録音がたとえわずかなものであろうと、僕たちは感謝せねばならない。

・ゲオルク・ギューブボルト監督「カルロス・クライバー I am lost to the world」(2011)

歌劇「魔弾の射手」序曲のリハーサル風景でのやり取りが、天才カルロスの真骨頂。弦楽器による、空ろな、不安を煽る暗澹たる冒頭の出について彼は楽員に語りかける。

いつも他の人から先に始めさせるんです、常に同僚から始めさせるんですよ。同僚の方にはどこかわかるでしょう。

楽団員の作品への理解を深めるためにカルロスは言葉を尽くすが、その言葉で皆が皆待ってしまったら音は出ない。その上で、カルロスは次のように畳み掛けるのである。

勇気のある人が、静かに演奏を始めたのに気づいたら、こっそり忍び込んでそこから音量を高めるのです。

この言葉に僕は思わず膝を打った。
全奏者が、全身全霊で「聴くこと」を要求されることで起こる緊張と奇蹟(フルトヴェングラーのように)。クライバーの音楽の秘密のひとつが解き明かされたような、あらゆる人間活動に通ずる箴言。

映像の中で比較されるエーリヒとカルロスの「美しき青きドナウ」は、見事にシンクロする。やはり彼らは血のつながった親子であり、カルロスはエーリヒの遺伝子を受け継いでいるのである。

一方、例の有名なウィーン・フィルとの「テレーズ事件」といわれる、リハーサル中の音源が一部収録されていることも興味をそそる。

4番の練習中に、彼が第2楽章冒頭の第2ヴァイオリンの奏でる“タンタ、タンタ、タンタ、タンタ”というリズムを“マリー、マリー“じゃなく”テレーズ、テレーズ“の気持ちで弾いてくれと要求したのが、ことの発端だった。おそらく、クライバーはベートーヴェンの恋人”テレーズ・マルファッティ“を念頭に置いて(当時のクライバーの恋人の名がテレーズだったという説もあるが、そんなことはどうでもいいことだ)、夢想的な第2楽章の出だしに、ベートーヴェンが「テレーズ、テレーズ」と呼んでいるようなファンタジーを感じとったのではなかろうか。ところが、ウィーン・フィルの側では、この2つのリズムの差がわからなかったらしい。
日渡哲「クライバー言行録」
WAVE31「カルロス・クライバー」(ペヨトル工房)P159

映像の中の白眉は、断片ながらバイロイト祝祭劇場のピットでの「トリスタンとイゾルデ」のリハーサル。相変わらず蝶のように舞うカルロスの座っての(真正面からの)指揮姿に金縛り。これほど「トリスタン」が生命力豊かに響くのを聴いたことがないくらい(映像と音はおそらく別のものを上手に編集しているのだろうと思う)。ちなみに、BGMで使用されるシューベルトの「未完成」交響曲も絶品。

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