今宵はシャーンドル・ヴェーグの「プラハ」交響曲を聴いて思ふ

mozart_41_vegh外国を訪れると、いろいろいなことをつい思う。
日本という国のこと、そこで生きる僕たち日本人のこと。
平和であることが本当に平和なのか。再び深夜のモーツァルト。この町の風情に似合うのか似合わないのか、そんなことはどうでも良し。いつどこで聴いてもモーツァルトはモーツァルト。普遍的なのだ。

1786年12月と言えば、モーツァルトが最後の光彩を放っていた頃。以降、作品が売れなくなり、予約演奏会も激減する。「フィガロの結婚」と同時期に生み出された「プラハ」交響曲の第1楽章序奏の、何とも「暗闇」での手探りの彷徨にも似たような慟哭に、僕は永遠というものを感じる。主部に入っての明朗で快活な音調も、冒頭の深刻さによって相殺されるよう。なるほど、3楽章制をとったのは、あくまで序奏をひとつの楽章と見立てて完結した作品として作曲者自身が扱ったからか。

第38番交響曲の主調はニ長調で、ということは神に捧げられたものだ。神とは愛であり、愛とは「ひとつ」ということだ。この音楽の中にも「友愛」というテーマを掲げたフリーメイスン的臭いがプンプンする。シャーンドル・ヴェーグが楽章間のパウゼをおかず、一気に音楽を進めたのは、その「ひとつ」ということをわかっていたからだろうか。ともかく前のめりの挑戦的なモーツァルトであることは間違いない。

モーツァルト:
・交響曲第38番ニ長調K.504「プラハ」
・交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」
シャーンドル・ヴェーグ指揮ザルツブルク・カメラータ・アカデミア

モーツァルトの特に後期の音楽は、聴く者に大いなるエネルギーを誘発する。純粋で無垢で、どの瞬間を切っても愉悦に満ち、有機的。こんな音楽を生み出した音楽家はまずはいない。
作品に新たな息吹を付すヴェーグの解釈の斬新さと、それを具体的に表現するザルツブルク・カメラータ・アカデミアの面々の類稀なる力量。
第2楽章アンダンテの、緩やかでありつつ確信に満ちた雰囲気は、作曲者と演奏者、そして聴衆の三位一体により一層の深い意味を獲得する。そして、実際にヴェーグの指揮により「プラハ」交響曲は現代に蘇った。
フィナーレのプレストの理想的なテンポ。ティンパニの奥深い響き。そして、フルートの可憐な音色。光と翳の統合を画策したモーツァルトの傑作。
今頃になってようやくこの交響曲の「意味」がわかりつつある。シャーンドル・ヴェーグのお蔭でもある。

 


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