ウゴルスキ・ピアノ・リサイタル(1994.11録音)を聴いて思ふ

ugorski_piano_recital_short_stories240年齢による技術的衰えがあるのだろうか。
そもそも演奏の瑕は頻出するという人だから、テクニック云々はこの際どちらでも良い。それよりもつい機会を逸してしまっているこの人の実演に触れてみたい。再デビュー後の全盛期をとうに過ぎているとはいえ、それでも録音を聴くたびに震えが止まらぬほどの感動を呼び起こすピアノ・マジックに一度はどっぷり浸ってみたいとずっと思ってきた。
もはや来日の可能性はないのだろうか・・・。

突如として西側に紹介され、初めてその音を耳にした時、衝撃を受けた。
何と言葉にすれば良いのかわからないけれど、とにかく一言「洗練され、美しい」のである。
どの作品をとっても決して「普通の」演奏ではないのに。
音を丁寧に鳴らす様。弱音部のあまりの静けさと癒しに痺れる「愛の夢第3番」。こんなリストはついぞ聴いた試しがない。あるいは、「月の光」における浪漫と幽玄。音楽の心をこれほどストレートに演奏し得たピアニストがかつていたのだろうか。そして、「トロイメライ」の、文字通り夢の中という恍惚感。

魔術師オリヴァ・ハドゥーの言葉を想う。

人間は恐怖さえなければ、天地自然の諸霊を支配できるということは、いかに愚昧なものにとっても自明のことでなくてはならん。気まぐれな精神には、断じて大気の精を駆使することはできんし、移り気な性情が、どうして水の精を使いこなすことができよう。
しかし、もしその道士が霊活、自在、剛強であるならば、彼は全世界を頣使するであろう。嵐のなかを歩いても、一滴の雨も頭上には落ちず、風も衣服のひとつ、ひるがえすことなく、火に入るとも焼けぬであろう。
サマセット・モーム著/田中西二郎訳「魔術師」(ちくま文庫)P53

そう、ウゴルスキの演奏にはいわば「恐怖」がないのである。安寧と慈しみと。魔術師のようなその風貌に相反して、彼の内側から湧き出る愛の表情がピアノを媒介にして愛らしく優しい音楽と成る。

ウゴルスキ・ピアノ・リサイタル
・ブゾーニ:モーツァルトの主題によるジーグ、ボレロと変奏曲
・リスト:愛の夢第3番変イ長調S298
・ドビュッシー:月の光
・メンデルスゾーン:カプリッチョホ短調作品16-2
・シューマン:トロイメライ作品15-7
・ショパン:幻想即興曲嬰ハ短調作品66
・スクリャービン:2つの詩曲作品32
・ラフマニノフ:前奏曲嬰ハ短調作品3-2
・スクリャービン:左手のための2つの小品作品9
・ウェーバー:舞踏への勧誘(華麗なるロンド変ニ長調作品65)
・ウェーバー:ピアノ・ソナタ第1番ハ長調~第4楽章無窮動
アナトール・ウゴルスキ(ピアノ)(1994.11.24-28録音)

その大いなる断末魔の光景を、おのが眼で見たいという激しい熱望に、幾たび我輩は悩まされたことか―二度と消すことのできぬ炎が河とともに流れ降って、地上にありとある水の流れにそって燃え去り、一切の生物に含まれる水分を隈なく吸いだし、永遠の巌のあいだからさえも一滴のこらず奪い去るとき、火炎は吹きすさぶ風のように奔流して、生命ある者はみなのがれのがれて海岸にたどりつく―だがその海までが猛火に燃やしつくされて涸れてしまうのだ。
~同上書P153

ハドゥーのこの言葉は、まるでウゴルスキのスクリャービンを指すかのよう。
意味深なスクリャービンの何という精妙で柔らかい音。さらに、ラフマニノフの嬰ハ短調前奏曲も堂々たる風格の崇高な演奏。
ここには意志、愛、そしてイマジネーションがある。

しかし魔術とは、意識的に目にみえぬ手段を用いて、目にみえる結果を生みだす術にほかなりません。意志、愛、想像力等は、万人がもっている魔術的な力ではありませんか。それらの力を最高度に発揮する方法を知る者が、すなわち魔術師です。魔術にはただ一つの理論しかありません―すなわちそれは、可見のものは不可見のものの尺度である、ということです。
~同上書P55

ハドゥーの言う魔術的な力こそウゴルスキの内なる力。
ますます実演を聴きたいという想いを強くする。

 

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